はじめに
西洋の列強がアジアに押し寄せる最中、1863年に朝鮮王朝の第26代国王に即位したのが高宗[コジョン]だった。そしてこの時、大院君となって王朝の実権を握ったのは父の是応[ハウン]である。是応は、王室の権威を高めるために景福宮[キョンボックン]の再建を手掛けるなど大規模な土木工事や軍備強化を図るとともにそれまでの鎖国政策を維持し、朝鮮半島に進出してくる列強諸国に対抗した。
この時期、朝鮮半島では開国を求めるフランスやアメリカとの争いが相次いで起こっている。1875年には、日本の雲揚号が江華島近海へ侵入したことから朝鮮側はこれに砲撃を加えるという事件が起こり、翌日には日本側からの報復砲撃を受け、永宗島が占領される事態となった(江華島事件)。この事件をきっかけに日本側は朝鮮政府に詰め寄り、翌年2月に日朝修好条規が両国間で締結される。こうして閉ざされていた朝鮮は開国への一歩を踏み出すこととなり、朝鮮への欧米スポーツの伝播も、本格的なスタートを切るのである。
本章では、開国以降の朝鮮のスポーツを、朝鮮がたどった悲壮な運命とともにたどっていくことにしたい。
1.朝鮮へのスポーツの伝播と組織化
朝鮮政府は、開国を契機に日本に外交使節を派遣し、日本を通じて世界の情勢を知ることとなる。世界の潮流を知った朝鮮政府は、近代的な軍備や技術、制度の導入に向けた開化政策へとシフトし、それによって朝鮮半島に近代教育も導入され始めるが、このことがスポーツの伝播と普及を大きく促していったのである。
各スポーツによって違いがあるものの、伝播のルートには、大きく言って、YMCAなどの外国人が運営する教育機関を中心としたものと、祖国の危機に瀕して立ち上がり愛国啓蒙運動を推進する朝鮮知識人らが運営する私立学校のふたつがあった。
1897年に朝鮮王朝は、清国との宗属関係を解消し、独立国であることを示すために国名を「大韓帝国」と改称した。1905年に、日露戦争で日本が勝利し、朝鮮半島に渡ってくる日本人が徐々に増えてくると、野球やテニスがそのコミュニティーのなかで行なわれるようになり、チームも組織されるようになる。政治・外交的には日露戦争中より日本と複数回の日韓協約が取り交わされ、日本の高まる圧力によって朝鮮は追い詰められていった。そのため国家消滅の危機に晒されることで盛んになった愛国啓蒙運動など朝鮮民族のナショナリズムの昂揚と密接に関わる体育・スポーツが展開されることになったのである。
まずは、この時期の朝鮮半島における主なスポーツの伝播と組織化についてみてみよう。
陸上競技。朝鮮の陸上競技は、1896年に英語学校でハッチスンらの指導の下で開催された運動会がその始まりとされている。体操とともに最も初期に普及したスポーツのひとつである陸上競技は、朝鮮での社会体育の始まりとも言える運動会を通して、地域で行なわれてきたシルム(朝鮮相撲)、クネ(ブランコ)、ノルティギ(板飛び)、ファルソギ(朝鮮弓術)などの民族スポーツや伝承遊戯などと共存しながら、どの競技よりも早く大衆化した。
体操。朝鮮の近代学校制度は、1895年に親日派政権のもとで始まった甲午[カボ]改革の中で成立し、この時公布された小学校、師範学校などの諸学校官制および規則が日本の学制に則って定められ、体操科において「普通体操と兵式体操」を行なうこととなった。また1895年に設置された外国語学校の規則では体操を教科目とする条項はなかったが、ハッチスン、ハリファクス、マーテルら外国人教師たちによってスポーツや兵式体操、器械体操などが行なわれていたとされる。
水泳。朝鮮の水泳の始まりは、1898年5月14日に発布された武官学校勅令にもとづき、同校の学生たちが夏季に水泳練習を行なったのがその始まりだとされる。1909年7月15日からは2週間にわたって、李熙斗[イ・ヒドゥ]校長をはじめ、将校級職員20余名と学生40余名が漢江に宿営し、水泳指導も始まった。水泳は20世紀に入り、各種講習会の実施や水泳場の建設によって全国的に普及し始めることとなった。
サッカー。球技のなかで朝鮮半島に最も早く紹介されたのがサッカーであった。サッカーが初めて行なわれたのがいつなのかはいくつかの説があるが、官立外国語学校の外国人教師たちが最初に行なったとする説が有力である。1897年には、外国語学校出身の通訳官たちが仁川に入港してきた英国艦船の水兵たちのサッカーを見て刺激を受け大韓擲球倶楽部を組織したが、これが朝鮮におけるサッカーチームの嚆矢となった。1899年5月には皇城YMCAと五星学校が三仙坪[サムソンピョン]でサッカーの試合を行ない、この後、サッカーは学校の課外活動として普及し始めた。培材[ペジェ]学堂では1902年に蹴球部が組織されている。また平壌で最初にサッカーが行なわれたのは平壌神学校であった。この平壌神学校から崇実学校や大成学校にサッカーが伝播していったとされる。
野球。朝鮮半島における最初の野球試合は、1896年4月にソウルに居住するアメリカ人とアメリカ人海兵隊によるものだとされている。また同年6月の試合には独立運動家の徐載弼[ソ・ジェピル]が出場している。朝鮮人によって野球が行なわれるようになったのは皇城YMCAでジレットが学生たちに野球を指導してからだということが定説となっているが、その起源となる年については「1905年」説と「1904年」説に分かれており、どちらなのかは判然としていない。何れにせよ20世紀初頭を起源として朝鮮半島で野球が行なわれるようになったことは間違いない。
バスケットボール。バスケットボールは大韓帝国期に伝播してきたが、サッカーや野球よりも普及は遅れた。バスケットボールはアメリカ人のジレットが1907年の春に皇城YMCAの会員たちに紹介したことが始まりとされているが、ジレット自身はバスケットボールを普及させることなく1908年にアメリカへ帰国してしまう。翌1909年7月、夏休みに帰国した東京留学生チームと皇城YMCA・西洋人の連合チームが訓練院でバスケットボールの試合を行なっている。この時の競技がバスケットボール競技の始まりとされている。韓国併合後には学校体育を通じて普及していった。
テニス。テニスを朝鮮半島へ最初に導入したのは初代アメリカ公使のフットであった。1884年の甲申事変が起こる以前からアメリカ公使館職員たちと開化派の人士たちがテニスに興じていたとされる。1900年には培材学堂でテニス部が設立された。培材学堂ではネットの代わりにコートに縄を吊るしてテニスを行なっていたという。信聖学校でも兵式体操、サッカー、野球などともにテニスも行なわれた。この頃のテニスは日本でつくられた軟式庭球が主流となっており、草創期のテニス普及には日本人の武者練三が主導的な役割を果たしたとされる。
2.植民地支配のなかのスポーツ
1910年8月に日韓併合条約が調印されると、朝鮮半島は日本の支配下に置かれることとなり、朝鮮民族の行なう体育・スポーツ活動は日本の支配の下で規制を受けることになる。次に開国とともに普及し始めた近代スポーツが植民地支配のなかでどのような展開を見せたのかついて見てみたい。
韓国併合後、1910年代の日本による朝鮮半島の植民地支配は「武断政治」と呼ばれる。この時期、朝鮮半島においては少数の日本人が大多数の朝鮮民族をコントロールするために強権的な政策が実行されていた。スポーツにおいても同様であり、朝鮮民族のナショナリズムを高める危険性のあるスポーツが取締りの対象となったり、日本人とスポーツで競わないような配慮がなされることもあった。前者の一例として運動会があげられる。「武断政治」期にも朝鮮の各地域で運動会が開催されており、小規模ではあっても朝鮮民衆が一箇所に集まることのできる機会を提供していた。為政者の側からすると、とくに各地域が連繋して開催する連合運動会は朝鮮民衆が暴徒化する可能性のある場であることから、しばしば中止を命じた。民族的な伝統競技である石戦[ソクチョン]なども運動会と同様の機能を有していたため、中止に追い込まれることがあったという。
また後者の代表的な例としては野球があげられる。日本人が朝鮮に入植してくると、日本で人気の高かった野球が植民地朝鮮においても盛んに行なわれるようになった。朝鮮人のあいだにも皇城YMCAの野球部が1906年2月に初めて試合を行なうなど、競技を通して野球が徐々に朝鮮社会へと浸透していった。しかし、日本で1915年に始まった全国中等学校優勝野球大会(甲子園大会)に朝鮮からの代表チームを派遣することは朝鮮総督府に認められなかった。これは朝鮮における予選大会で日本人と朝鮮人が競い合うことを良しとしない総督府の判断であったとされる。
こうした植民地朝鮮におけるスポーツに劇的な変化があらわれたのは1919年3月に起こった朝鮮民衆の大規模な抵抗運動、すなわち三・一独立運動の影響によって、「文化政治」と呼ばれる植民地政策に転換した1920年代以降である。また、「文化政治」と同時に植民地における近代化が総督府によって押し進められ、その結果、スポーツ大会もその規模を拡大していく。前述の全国中等学校優勝野球大会に朝鮮からの代表チームが「内鮮融和」のスローガンの下に参加し始めたのもこの時期に当たる。また、1925年10月には総合的な競技大会を開催することのできる京城運動場が完成し、そこで「半島のオリンピック」とも呼ばれた朝鮮神宮競技大会が開催されるようになる。
図1.京城運動場の開場式と斎藤実『京城日報』1925年10月16日付
一方、「文化政治」により、朝鮮人の活動にも一定の融通が利くようになる中で、1920年7月には朝鮮民族のスポーツ振興を目的に朝鮮体育会が設立され、朝鮮民族のためのスポーツ大会を主催していく。朝鮮体育会は京城、すなわち現在のソウルにおいて成立した体育団体であったが、その設立には同年に創刊された『東亜日報』の関係者が深く関与していた。朝鮮社会の近代化を目指す彼らと同様に朝鮮体育会もまたスポーツを通して朝鮮民族に近代的な価値観や国際社会のスタンダードを広めていこうとした。朝鮮体育会を主導した『東亜日報』の関係者のひとり張徳秀[ジャン・ドクス]は、女性の解放を訴える論文を雑誌に掲載し、朝鮮社会における女性解放問題をいち早く主張していた。1923年から始まった東亜日報社主催全朝鮮女子庭球大会は、そうした価値観と符合したものであり、この大会はスポーツを通して朝鮮の女性の社会進出を阻む陋習を打破することに寄与したのである。世界的な20世紀の女性運動の潮流がスポーツを介して朝鮮にも影響を与えたのであった。
こうしたスポーツ団体は平壌においても設立される。曺晩植[チョ・マンシク]が中心となって1925年2月に発足させた関西[グァンソ]体育会がそれである。関西体育会は共産主義系組織と目されて総督府から警戒の対象ともなっていたが、平壌を中心とする西北地方の朝鮮人のスポーツ組織として朝鮮体育会に次いで朝鮮のスポーツ振興に寄与したと評価されている。
1930年代に入り、朝鮮人選手らの競技力が上がってくる中で、1932年のロサンゼルス五輪に朝鮮出身の金恩培[キム・ウンベ]、権泰夏[グォン・チハ]、黄乙秀[ファン・ウルス]の3名が日本代表選手として参加することになった。この時の日本の代表団には大日本体育協会役員であった李相佰[イ・サンペク]も同行していた。オリンピック開催前に在米コリアンの人びとは彼らの来米を歓迎し、レセプションを開いている。その会場の壁には太極旗が掲げられていた。しかしそれとは対照的に会場に入ってきた3人のユニフォームの胸には日の丸が刻印されており、それを見た在米コリアンから強く抗議される事態となった。なかには彼らを民族の裏切り者扱いする言動も見られたという。アメリカで暮らす在米コリアンの民族意識は、五輪代表となった同胞たちによって鼓舞されたが、それと同時に日本の代表となった彼らに対して強い嫌悪感も示したのであった。これはアメリカへと移動してきたコリアンがロシアや中国に労働・農業移民として移動していったコリアンとは違い、より民族意識の強い亡命知識人らが主流であったことが少なからず影響しているものと思われる。
ロサンゼルス五輪から4年後、1936年のベルリン五輪には7名の朝鮮人選手が日本代表として参加している。このベルリン五輪で朝鮮スポーツ史上最も有名な出来事が起きる。オリンピックの華とされるマラソンで孫基禎[ソン・ギジョン]が金メダルを獲得するのである。
図2.ロサンゼルス五輪時の在米コリアンによる歓迎会、2010年
孫基禎の金メダル獲得は当時の朝鮮民衆や民族主義者たちに勇気と希望を与えたことは間違いない。当時の新聞記事を見ても民族主義者を代表するひとりであり、朝鮮体育会の会長であった尹致昊[ユン・チホ]のコメントなどからもその様子を窺い知ることができる。ただそれには、朝鮮半島の安定的な支配を目指す植民地権力側の朝鮮民族のナショナリズムに対して警戒心を強める結果をもたらした。このふたつが交錯する地点において起こったのがいわゆる日章旗抹消事件であった。『東亜日報』が表彰台のうえの孫の写真を掲載する際、胸の日章旗を消し(図3)、これが発覚して同紙が無期限停刊処分を受けるのである。
図3.胸の日章旗が消された孫基禎の姿『東亜日報』1936年8月25日付
ベルリン五輪から帰国した孫基禎はこの日章旗抹消事件のために特高から目を付けられ、帰国後は監視の目に晒されるなかで鬱屈した生活を送り続けることになる。1937年には金性洙[キム・ソンス]の勧めで一旦普成専門学校に入学し、陸上競技部で活躍するも、半年で退学し、その後日本の明治大学に入学し直している。
孫は、学生として日本に滞在している間、1938年の伊勢神宮から明治神宮を結ぶ矛継走や1940年の明治神宮大会などにおいてその姿を見せるなど、オリンピックの英雄は日本・朝鮮の英雄として時代に規定された行動を示していった。大学を卒業後に朝鮮へ戻った孫基禎は朝鮮陸上競技連盟会長でもあった伊森明治の紹介により朝鮮貯蓄銀行に就職している。1940年代は宗主国日本と同様に朝鮮も総力戦体制へと向かっていく時期であり、周囲の朝鮮人ならびに多くの民族主義者らが対日協力者に転向していくなかで、朝鮮における彼の生活圏は帝国日本との結びつきをさらに強め、1943年11月には朝鮮人学徒志願兵を呼びかける存在へと化していった。
朝鮮半島のスポーツは、アジア・太平洋戦争のためにその姿を消していく。1943年以降、競技大会に対する規制が厳しくなるとスポーツそのものを楽しむことは難しくなり、朝鮮のスポーツは戦場あるいは銃後の社会で活躍できる身体の鍛錬へとシフトされていったのである。
3.南北の対立とスポーツ
孫基禎は時代に翻弄されたランナーだった。日本の植民地支配から解放された朝鮮では、1945年10月に京城運動場で自由解放慶祝総合競技大会が開催され、そこには涙を拭う孫の姿があった。翌年の6月にはベルリン五輪での優勝を記念した十周年記念祝賀会が徳寿宮で催され、植民地期に民族運動を主導した李承晩[イ・スンマン]や金九[キム・グ]らが出席し、当時を回想しながら孫の栄誉を讃えるとともに、民族運動の最中に彼らが受けた感動と希望をその祝辞に込めて熱く語っていた。
植民地支配の権力構造に飲み込まれたスポーツの英雄は、時代の趨勢とともに植民地朝鮮を生きねばならなかったのである。自由解放慶祝総合競技大会で孫が流した涙は、歓喜と同時に民族のナショナリズムと植民地権力の葛藤から放たれた安堵と悔恨の涙にも見える。
解放後、孫はマラソン普及会を組織し、1947年のボストンマラソンで教え子の徐潤福[ソ・ユンポク]が優勝するなど、指導者としても活躍する。さらにロンドン五輪、ヘルシンキ五輪の韓国選手団の総監督や陸上競技連盟の会長を歴任し韓国のスポーツ振興に尽力している。しかし、こうしたスポーツに彩られる解放後の朝鮮半島の平和は長くは続かなかった。1950年6月、北朝鮮軍が南へと進軍し、韓国との間に軍事衝突が生じた。朝鮮戦争の始まりである。戦火は朝鮮半島全土に及び、多くの死傷者や離散家族を生み出した。1953年7月に休戦協定が結ばれることによって、戦争は休戦となったが、それにより38度線を境に南北分断が固定化されることになった。この悲劇はそのままスポーツの世界にも持ち込まれることになる。
1964年の東京五輪は、朝鮮半島の南北の代表選手が揃って参加する大会となるはずだった。北朝鮮の選手団は万景峰号で来日し、東京入りしていた。しかし、東京五輪の開会式当日、10月10日に北朝鮮選手団の姿はなかった。彼らは東京五輪に参加することなく、帰国の途についていたのである。原因はその前年、1963年にインドネシアで開催された新興国競技大会いわゆるGANEFO(ガネフォ)への参加による選手の出場資格をめぐる問題にあった。インドネシアは1962年の第4回アジア大会にイスラエルと中華民国(台湾)を招請せず、IOC(国際オリンピック委員会)との対立を深めてIOCを脱退し、反帝国主義の御旗の下、GANEFOというオリンピックと対峙する新たな国際競技大会を開催したのであった。そこには共産主義を標榜する多くの国々が参加しており、北朝鮮もGANEFOに選手団を送っていた。これに対してIAAF(国際陸上競技連盟)やISF(国際水泳連盟)は、GANEFOに出場した選手のオリンピック出場資格の1年間停止を勧告するという事態になっていたのである。
東京五輪の開幕直前にはオリンピックを主催する日本側の交渉によりIOCの態度は軟化し、インドネシアもオリンピックへ出場できることになった(最終的には不参加)。しかし、IAAFやISFが、オリンピック出場資格の停止処分を解除しなかったため、陸上競技のトラック種目で金メダルが確実視されていた北朝鮮の辛金丹[シン・グムタン]選手などの参加は不可能となる。こうした処置に対する抗議として北朝鮮選手団は東京を後にしたのであった。
そしてこの時ひとつの悲劇が生まれている。有名な辛金丹親子の「刹那の再会劇」である。辛親子は朝鮮戦争時に離別し、それぞれ南と北での生活を余儀なくされていた。東京五輪によってふたりは日本で再会することができたものの言葉を少し交わしただけで親子はまた離れ離れとなった。正に朝鮮半島の南北分断の現実を世界に知らしめる出来事であった。
図5.辛金丹選手の再会を報じた記事『東亜日報』1964年10月10日付
一方、韓国にとって東京五輪の参加は、その後の国内のスポーツ環境を大きく変える契機となった。競技成績は振るわなかったものの、東京五輪を経験した閔寛植[ミン・グァンシク]ら韓国のスポーツ関係者がその後の韓国のスポーツの発展を導いて行くことになるのである。
東京五輪への参加はボイコットしたものの、1960年代の北朝鮮は、韓国よりも政治・経済的に優位なポジションにあった。この時期、韓国は1961年の軍事クーデターにより政治的実権を握った朴正煕による軍事独裁政権がつづき、韓国社会はまだ不安定な状態であった。一方で北朝鮮は朝鮮戦争後の復興をいち早く成し遂げ、金日成[キム・イルソン]を中心とする政治体制の強化が図られていた時期であり、中ソが対立していくなか「主体[チュチェ]思想」をイデオロギー的な背景にして独自の発展を目指していた。この政治的にも経済的にも韓国よりも優位であった立場はスポーツ場面にも顕著に現れる。その典型が1966年にイングランドで開催されたサッカーのワールドカップであった。
この時の北朝鮮サッカーはアジアでは群を抜いて強かった。北朝鮮代表チームは、アジア・アフリカ・オセアニアの代表1枠を争う予選でオーストラリアと対戦して見事勝利を収め、本大会への出場を決めている。この予選に韓国は参加していない。なぜなら韓国代表チームは期待されていた東京五輪で1勝もできず、全ての試合で惨敗を喫しており、韓国サッカーを統括する大韓蹴球協会は負けるかも知れない北朝鮮との試合を避けたかったからである。
この北朝鮮の予選突破は、ワールドカップが国際的なプロパガンダとして機能することを危惧していた韓国にとって不安を抱かせるのに十分であった。南北双方にとって、冷戦最中の国際スポーツ大会は国際的な世論に影響を与える可能性を含んでいた。分断された朝鮮半島の主導権を握るには国際社会からの承認が重要になる。互いの発展を相争うなかでスポーツの果たす役割は両国にとって小さなものではなかったのである。韓国は、ホスト国のイングランドに対してイギリス駐在大使から北朝鮮チームの参加拒絶を求める。これは冷戦を最大限利用して西側諸国のスポーツ大会から北朝鮮を排除しようとする動きであったと言えよう。2年前の東京五輪でのGANEFOに関わる問題を再燃させるような政治的行動ともとれる。しかしFIFA(国際サッカー連盟)の意向によりこの要求は却下された。
こうした韓国の不安や警戒とは裏腹にこのイングランドでの本大会で北朝鮮は見事な活躍を見せる。一次リーグはソ連、チリ、イタリアと同じ組となり、ソ連には3対0で敗れたものの、チリと1対1で引き分け、最後にイタリア戦を残していた。圧巻はこのイタリア戦であった。北朝鮮チームは絶対的に不利であると目されたこの試合を走り抜くオフェンスで見事覆し、イタリアを1対0で破ったのである。ワールドカップ史においてアジア勢における初めての勝利でもあり、それをジャイアントキリングで果たしたのである。この試合で得点を決めた朴斗翼[パク・ドゥイク]は北朝鮮の英雄となった(図6)。またこの勝利は全世界に衝撃を与えた。常にヨーロッパと南米のみがサッカー強国であるという世界の共通認識であったサッカー界に一石を投じる結果をもたらしたのである。
決勝リーグではポルトガルに5対3で敗れたものの、ワールドカップベスト8という北朝鮮の活躍は、韓国を国家ぐるみのサッカー振興へと駆り立てた。韓国の諜報機関であるKCIA(大韓民国中央情報部)の下で「陽地[ヤンジ]」というサッカーチームが組織され、韓国の全域から優秀なサッカー選手が集められることになったのである。国の威信がサッカーを通じて示されることを認識した政治的判断の結果であったと言っても過言ではない。当時の東西冷戦のなかで北朝鮮サッカーが朝鮮半島に与えた衝撃は尋常ではなかったことが分かる。
また、この勝利は社会主義システムのプロパガンダにも一役買った。GANEFOに関わる一連の問題は、インドネシアを中心とする新興国あるいは社会主義国家側の抵抗を示すものでもあったが、イタリアサッカー選手(=資本主義システムの権化)と比べて、かなりの低賃金で暮らしているアジアの小さな選手たちが、そのことを諸共にせず、実際にワールドカップで資本主義国家のチームを打ち負かしたことが社会主義システムの優秀性を謳う格好の材料となったからである。
しかし、北朝鮮のサッカーの強さは社会主義システムに基づいたものというよりも、かつての植民地時代における平壌サッカーの伝統によるものであるという見方もある。植民地期、平壌におけるサッカーは1928年に全日本中等学校蹴球選手権大会で優勝した崇実[スンシル]中学、さらに翌年に出場した平壌高等普通学校などを中心に学生たちがその表舞台で活躍し、日本の強豪チームとの対戦でも勝利するなど、その強さは目を見張るものがあった。その後、中学や高等普通学校の卒業生たちが戊午蹴球団を設立し、1933年1月に平壌蹴球団としてその流れが引き継がれると、4月には全京城チームを招き、平壌と京城でサッカーの対抗戦が行なわれる。これが朝鮮で最も有名な京平[キョンピョン]戦と呼ばれるサッカー対抗戦の始まりであった。同年5月には京城の京城蹴球団が成立し、この京城蹴球団は1935年に開催されたサッカーの全日本選手権の決勝で東京文理大を6対1の大差で圧倒して優勝するなど、朝鮮サッカーの強さをさらに示す存在となっていく。
このように朝鮮においては、京城蹴球団と平壌蹴球団のふたつのライバルチームに牽引されながら、帝国日本における最高レベルのサッカーが展開されていった。こうしてサッカーは朝鮮民族を代表するスポーツとなっていったのである。宗主国である日本にサッカーの試合で勝つことが民族意識を高める効果をもたらし、また、ふたつの地域のライバル対決によって盛り上がった京平戦が多くの朝鮮人をサッカーの虜にした。現代の朝鮮半島のサッカーの基盤がこうしてつくられていったのである。ワールドカップでの北朝鮮の活躍は政治的にも重要な意味を持つものであったが、その淵源を辿ると日本の植民地支配と切り離せない朝鮮近代史の深い部分に突き当たるのである。
4.ソウル五輪開催の意味
ドイツのバーデンバーデンにおいて、1988年のオリンピック開催地が決定したのは1981年9月のことであった。決戦投票で名古屋に大差をつけてソウルが圧勝したのだが、この勝利の背景には韓国の現代財閥の鄭周永[ジョン・ジュヨン]を中心とする財界の人びとの暗躍とスポーツ振興を支持している全斗煥[ジョン・ドゥファン]大統領の存在があったことは見過ごせない。韓国はまさに政官財が一体となった総力戦でオリンピックのソウル開催を勝ち取ったのである。
このソウルでの開催は「ひとつのコリア」を主張する北朝鮮にとっては重大な事態であった。なぜならこうした国際的なビッグイベントの開催は、そのまま国家そのものの存立意義と北朝鮮主導の朝鮮半島統一に影響を与える可能性を含んでいたからである。北朝鮮はこれを阻止するための妨害工作に出ることになる。その最も顕著な事件が1983年10月にラングーンで起きた大統領の全斗煥を狙った爆弾テロだった。全斗煥は死を免れたものの、韓国側は優秀な人材を多く失い、この時期の南北関係にとって大きな禍根となる。
ラングーンでの事件後、1984年の4月から5月に南北体育会談が開催されているが、このときの会談は会議に入る前から爆破事件をめぐって紛糾し、スポーツ交流やオリンピックに関わる議論ができず、失敗に終わっている。この事態に焦りを覚えたのがIOCであった。前述したように1980年代のオリンピックはボイコット問題で揺れ続き、オリンピックのイメージそのものが損なわれ、政治色の強さが明るみになっていた。ボイコットや国際政治の影響を避け、朝鮮半島でオリンピックを平和裏に開催するには北朝鮮の妨害を封じる手立てが必要だった。IOCは事態の収拾のためにスイスのローザンヌに両国の代表を招き、再度、南北の体育会談を行なう。会談の内容は、韓国と北朝鮮によるオリンピックの共催あるいは分催に関する事項や統一チームの構成についてなどであった。しかし、ここでの会談も最終的な合意には至らず、結局破綻してしまう。その後、会談は開かれず、北朝鮮のオリンピック不参加が決定し、1987年11月には大韓航空機爆破事件が起きたのである。こうした大きな事件が頻発したにもかかわらず、韓国は北朝鮮の後ろ盾となっているソ連、中国などの社会主義国家のソウル五輪参加を取り付けることで北朝鮮によるソウル五輪への妨害工作を避けていこうとした。
この時期の韓国国内の状況も確認しておこう。1980年代は韓国内で民主化運動が活発に展開され、オリンピック開催の前年に当たる1987年1月にソウル大学の学生朴鍾哲[パク・ジョンチュル]君が拷問を受けて死亡した事件が世間に広く知られるようになると市民の怒りは頂点に達していく。民主化運動が激しくなるなか、さらに6月にはデモ中に催涙弾によって延世大学の学生李韓烈[イ・ハンニョル]君が重傷を負う(のちに死亡)。学生たちが犠牲者となることで体制側の権威は失墜し、ソウル五輪を控えて世界の耳目を集めるなか、ようやく盧泰愚大統領候補の下で「6・29民主化宣言」が出され、民主化が成し遂げられることになった。この政治的民主化の達成は国内に向けても、国際社会に向けても韓国が生まれ変わったことを示し、当然のことながら北朝鮮に向けても強烈なメッセージを送ることになったのである。
このソウル五輪で着目すべきは、東西を代表する両国家が大会に参加したことである。北朝鮮がオリンピックの不参加を表明するなか、社会主義国家の領袖たるソ連は北朝鮮をよそ目にソウル五輪に参加する。さらに北朝鮮と国境を接し、大きな影響力を有する中国も、2年前にソウルで開かれたアジア大会に続き、ソウル五輪にも参加している。
ソ連・中国といった大国のソウル五輪への参加の重要性は、その前回、前々回に開催されたオリンピックのボイコット問題にある。1980年代のオリンピックは混沌としている。1980年に開催されたモスクワ五輪は、1979年12月のソ連によるアフガニスタン侵攻をきっかけに、アメリカを中心とする西側諸国がモスクワ五輪をボイコットし、1983年10月のアメリカによるグレナダ侵攻のときには、1984年のロサンゼルス五輪を東側諸国がボイコットした。アメリカとソ連の対立が緩和しデタントへと向かっていた1970年代とは逆に、1980年代の国際情勢は東西の緊張が激化し、それがそのまま国際的なスポーツ大会にも影響を与えていたのである。
一方、韓国では1980年代の全斗煥、盧泰愚[ノ・テウ]政権の下で「北方外交」と呼ばれる外交政策が展開されていた。韓国政府はこれまでほとんど交流がなかった社会主義国家と国交を樹立していく外交努力を重ね、北朝鮮の後ろ盾である中国、ソ連から朝鮮半島における国家的な承認を取り付けることで、北朝鮮の危機感を煽り、北朝鮮を国際社会から孤立させようとしていたのである。北朝鮮を国際社会で孤立させることができれば優位な立場から南北交渉を進めることが可能となる。このように北方外交は政治的民主化、経済的な発展を背景に国際的な承認の下で外堀を埋め、韓国主導の統一を目論む戦略的な外交政策であった。
こうした外交政策と軌を一にして韓国のソウルでアジア大会、さらにオリンピックが開催され、国際的なスポーツイベントのホスト国となることで韓国は社会主義圏の国々との交流を深めていったのである。外交政策の一環としてソウル五輪は効果を発揮し、南北の関係を変化させたのであった。南北関係における主導権はオリンピックを成功裏に終え、経済的に安定してきた韓国の優勢へと移っていった。ソウル五輪を無事開催しえたことにより国際社会からの信頼は確実に増していった。南との対立や関係の悪化が北朝鮮にとって何らかのメリットを持つことはなくなり、むしろ国際的に孤立していくことに北朝鮮は焦りを感じ始める。
国際的孤立が進行する北朝鮮の危機感と焦り、さらに1980年代に韓国によって展開されてきた北方外交、これらの結果、1990年代の南北のスポーツは南の韓国主導の下で「統一」をスローガンとしながら両国の友好を示そうとするスポーツ交流へと転換していく。
例えば1991年4月から5月にかけて千葉で開催された第41回世界卓球選手権大会では、北朝鮮、韓国の両国による南北統一チームの参加を決定し、北と南の合同チームが誕生する。統一チームという国家間の決定に翻弄されながら、女子団体チームは南の玄静和[ヒョン・ジョンファ]と北のリ・プニを中心に決勝にまで勝ち上がり、決勝戦では卓球王国中国を見事に打ち破ってを優勝をつかみ取った。この優勝はメディアでも大きく報じられ、スポーツによって実現した「小さな統一」を示す契機となった。
さらに同年6月には、世界卓球選手権大会にひきつづき、ポルトガルで開催されたサッカーの世界ユース選手権大会にも南北の統一チームが参加している。これらはその前年に開かれた南北体育会談での協議にもとづくもので、世界卓球選手権大会での決定事項(呼称、団旗、団歌など)を踏襲することで南北間の混乱はなく、首尾良くユース大会へと参加することができている。このユースチームは本大会で強豪のアルゼンチンを1対0で破るなど大健闘し、準々決勝にまでコマを進めた。準々決勝ではブラジルに破れてしまったが、世界卓球選手権大会と同様に南北統一チームの活躍する姿を朝鮮半島の内外に発信することになったのである。この二つの合同チームは南北融和の象徴としてスポーツ交流がうまく機能した例だろう。
さらに南北の融和を象徴したのは2000年のシドニー五輪で南北の選手団が統一旗を先頭に開会式で合同入場行進をしたことであった。1980年代までにはあり得なかった南北の「統一」された姿が、オリンピックの入場行進を通して世界へと発信されることになったのである。1990年代以降に実現をみたこうした南北のスポーツ交流を外交政策の成果であると評価しながらも、韓国は北朝鮮の態度を警戒し続けてもいる。北朝鮮は政治的な価値があると判断したときにだけ合同チームや合同行進を提案するが、その態度は手のひらを返したように変化するからである。「スポーツだけの統一」は両国の国民、世界の人びとにとってもすでにありふれた姿となっており、政治的思惑が露骨に反映されている感が拭えない。
ともあれ1990年代以降の南北のスポーツ交流が活発になったのは、両国のパワーバランスの変化に起因している。すなわち北朝鮮、韓国ともにスポーツを外交政策の一環としながら、互いの妥協点を探りつつ、各々の思惑からある種のポーズを見せていたと考えるのが妥当であろう。その結果、二つの国家の融和を内外に示す統一チームや合同行進が両者の同床異夢の思惑を孕んでスポーツの場に現れたのであった。そしてこのパワーバランスの変化を生み出したタイミングにソウル五輪は位置付けられるのである。
5.南北のスポーツと「統一」
北朝鮮と韓国にとってのスポーツは、理性(=政治・外交的努力)と感情(=民族意識・ナショナリズム)の狭間で繰り広げられる身体的パフォーマンスであり、境界線が織りなすこのスポーツの姿は同床異夢の「統一」、あるいは幻想としての「統一」の下で常に繰り返しあらわれてきた。朝鮮半島に南北の分断国家が建国されたとき、両者の間に引かれた境界線は冷戦そのものを象徴するものであり、朝鮮半島のスポーツは国際政治と密接に絡み合いながら展開される運命を背負った。さらに朝鮮戦争が勃発し、それ以来、朝鮮半島における南北の主導権争いにスポーツが巻き込まれていくのは必然であったと言わねばならない。
2018年2月に韓国の平昌[ピョンチャン]で開催された冬季五輪は記憶に新しい。冬季五輪をめぐって数々の問題が露わになるなか、文在寅[ムン・ジェイン]政権下においてアイスホッケーの南北合同チーム、開会式への北朝鮮高官らの招待など、政治色が露骨に現れたオリンピックとなった。その後開催された米朝首脳会談を想起するとき、その起点となった平昌五輪の政治性の強さが窺えよう。ただ、これまで議論してきたスポーツと政治をめぐる問題も、外交交渉というテーブルを準備するためのものであり、国家間の平和を持続するために必要なものであるならば、スポーツを利用したと単純に非難することは避けねばならない。スポーツと政治は切り離し難く、スポーツに政治がつきまとうことは本章からも明らかだからである。ゆえに問わねばならないのはスポーツを手段として達成される目的ということになろう。
では、朝鮮半島における「統一」とスポーツの問題はどのように議論すればいいのだろうか。もし仮に朝鮮半島が統一されると朝鮮半島のスポーツはどのようになるのだろうか。
境界線によって作られたスポーツ環境は、両国のスポーツに大きな差違を生み出してしまっている。いくつかの競技は地域性を残す一方でサッカーや陸上競技などは、地域にかかわらず良い選手が統一された国家の代表として選考されていくことになるかも知れない。韓国で生活体育と呼ばれるいわゆる生涯スポーツは、朝鮮半島全域で実践されるには相当な時間を費やすことになるだろう。現在の朝鮮半島情勢から想像すると、文化やスポーツなどの領域は南の韓国の制度が活用されながら政策が実行されていく可能性が高い。統一後にやがて訪れる政治的安定は、朝鮮半島全域におけるスポーツ政策の実行を促進しうるが、それに伴う予算の工面にはタイムラグが生じうる。また経済的安定は、民間のスポーツ振興やプロ化を朝鮮半島全域に広げることにもなるだろう。もし北の地にプロサッカーチームができ、Kリーグに参戦するようなことになると、かつての京平戦を想起させるような言説がメディアによって語られ、新たな南北の対抗戦が繰り広げられるかも知れない。そこで展開するスポーツは政治的に対立したスポーツではなく、地域的感情と南北の格差に対する不満の捌け口としての機能を持つことになるのではないだろうか。朝鮮半島が統一されず、現在の状態が続くなら、これまでのスポーツが南北の関係を示してきたように、「統一」を背景に両国の思惑がスポーツを介して見え隠れすることになるだろう。