商業や貿易が盛んになり、経済が拡大基調になると、需要が増大するにもかかわらず、価格が高騰してしまっている状況が、「灯り」の新しい源を探求させる契機となった。1846年には、後に石油工業の父と呼ばれたカナダ人エイブラハム・ゲスナー博士が、トリニダード島の瀝青(アスファルト)を蒸留して新しい照明用の油を精製し、ケロシンと名づけた。
一方、1859年に米国ペンシルバニア州において、元鉄道員のエドウィン・ドレークが世界で初めて機械掘りによって地下およそ20メートルから石油を採掘した。このような地下から採取される石油は当初高価であったが、原油の精製技術の進展と市場の形成により、急速に安価なエネルギーとなっていった。つまり、4年間かけて採取される鯨油の量は、わずか数ヶ月で地下から採取できるようになった。
石油自体の利用は意外と古く、5000年以上前のメソポタミア文明までさかのぼり、瀝青(アスファルト)がシュメール人、アッシリア人、バビロニア人、エジプト人、ペルシャ人によって掘り出され、道路建設、建築、造船における防水、薬、死体の防腐として用いられていた。紀元前100年には、中国において油ガスの産業が成立していたという記録がある。掘削された坑井は竹製のパイプラインを通って、最終的に帆船で輸送されていた。パーカッション(打撃式)による坑井掘削が紀元前1000年に中国ですでに考案され、紀元前500年には掘削深度600メートルが達成されていたことを考えると不思議ではない。
さらに、西暦347年には深度240メートルの石油井が掘削されていた。時系列的には、中国の後にはアゼルバイジャンのバクー(1846年)、ポーランドのボブルカ(1854年)、ルーマニアのブカレスト(1857年)、カナダのオンタリオ(1858年)、米国のペンシルバニア(1859年)となっている。
商業的石油産業の勃興という観点からは、1859年の米国ペンシルバニア州のオイル・クリーク流域のタイタスビル周辺におけるエドウィン・ドレーク(1819〜1880年)(図3)による石油掘削が有名である。当時使用されていた坑井管、パイプライン、採油ポンプなどの歴史的石油採掘のためのインフラ施設が今でも当該地域には残っており、当時の石油生産活動を紹介するドレーク油井博物館も存在する。
オイル・クリーク流域では、セネカ族(アメリカインディアンの一民族)が地下からしみ出た油を木桶ですくって万能薬として使用したり、売買をしていた。オイル・クリーク流域における原油の商業的潜在力はジョージ・ビッセルとジョナサン・エヴェレスにより認知され、彼らはペンシルバニア石油会社を1854年に設立した。そして、鉄道会社に勤務していたエドウィン・ドレークを油田調査のためにタイタスビルに送った。
ドレークの調査の結果、商業的な有望性が確認されると、ドレークを現場担当とするセネカ石油会社を設立し、本格的な石油調査を開始した。当時はすでに岩塩掘削のための技術(蒸気機関を利用したもの)は確立していたため、この技術を援用することにより容易に原油を採掘することができるとドレークは当初考えていた。これはケーブル・ツール掘削という技術で、ケーブルの先に鋭利で重いツールを取り付けたものを繰り返し落下させることにより岩石を砕くことができる(図4)。
しかし、実際の調査作業は困難を極め、周囲からは「ドレークの愚行」とまで言われていた。ドレークはこれにもめげず根気強く作業を続け、遂には深さ約21メートルにおいて原油を掘り当てることに成功した。ただ、発見された原油は自噴しないものであったため、地下に存在する原油はポンプですくい上げられた。生産された原油は当初は金属製のたらいに貯められたが、後に木製のウイスキー貯蔵用のバレル(容量約159リットルの樽)に貯蔵された。
現在原油の計量単位としてバレルが使用される由来はここにある。このドレークの油井からの生産量は1日当たり約25バレル程度であった。それ以降、ケーブル・ツール掘削式の油井掘削を適用することにより多くの油井が掘削され、生産性の良い油井では1日当たり3000バレルを生産するものもあり、当該周辺地域を含めて16万バレル程度の生産がされていた。