近代オリンピックの草創期では、フランスの女性たちは、スポーツ・クラブや協会・連盟の多くに加盟を認められていなかった。このような状況の中、まずフランス初の女子スポーツ・クラブ「水の精」(水泳クラブ)が、1906年にパリで生まれる。1912年にフェミナ・スポート(サッカーと陸上競技)とフランス女子ジムナスティーク協会連合が、そして1917年にはフランス女子スポーツ協会連盟が、これに続いた。女子スポーツ協会連盟の会長を1919年に引き継いだアリス・ミリアは同年、オリンピック大会陸上競技への女子種目の採用を、IOC会長のクーベルタンに要求した。
要求を拒否されたミリアは、1921年に国際女子スポーツ連盟を設立し、その翌年、2年後にオリンピック大会を控えるパリを舞台に、第1回女子オリンピック大会を開催した(図11)。その後、女子オリンピック大会は4年ごとに、1934年まで計4回開かれた。ちなみに、1926年の第2回大会には人見絹枝(ひとみ きぬえ)が参加し、走り幅跳びと立ち幅跳びで優勝している。また、1928年のアムステルダム五輪では体操と陸上競技、フェンシング、水泳、ダイビングで女子の参加が認められ、これにも参加した人見は800メートル競走で2位となり、オリンピックで日本人女性初のメダルに輝いた。