1660年5月、イギリスでは空位のままだった国王の座に、フランスに亡命中のチャールズが即位する。内戦によって途絶えていた「コッツウォルド オリンピック ゲーム」も、王政復古後に復活したと伝えられる。競馬の聖地 ニューマーケットが発展し始めたのもチャールズの即位後で、彼はこの地に別荘を建て、みずからも競馬に参加して1671年と1675年に優勝した
英国式の競馬は、18世紀の啓蒙思想家ヴォルテールにとっては壮大なスペクタクルではなく賭博師が蝟集するペテンに満ちたものだったが、英国風の嗜好や考え方を気取るパリの一部の人たちの間では、情熱的に受け入れられるようになっていた。
チリでイギリス人のスポーツが最初に導入されたのは、バルパライソであった。
この港町のイギリス人たちが1880年代に立ち上げたバルパライソ スポーティング クラブは、
もともと競馬を中心とする集まりだったが、これを母体にチリで最初のサッカークラブとされる バルパライソFCが設立される。
1893年には、スポーティング クラブのグラウンドで初めての「国際試合」が アルゼンチンを相手におこなわれるが、
その内実は両国に住むイギリス人同士の試合であった。
あるイギリス人は当時のサッカーに対する地元のチリ人の反応について、「最初はみんな選手たちを見て大笑いしてたよ、馬鹿みたいに見えたんだろう」と回想している。 また競馬をハンガリーにどうにゅうしたのは、セーチェニ・イシュトヴァーン伯爵をはじめとする親英国貴族的な大貴族たちだった。
セーチェニは、特権制や農奴制を廃止し、「ハンガリー国民」の経済力を発展させようとする、19世紀初頭の国民主義運動の提唱者のひとりであり、競馬もその一環として推進していた。
競馬のためにより良い馬を育て、売買することによって農業 商業の促進や交通の発展に繋がるからである。
したがって競馬には、馬ぬしである貴族同士の、そのような能力同士の競争という側面があった。
もうひとりの競馬導入の立役者 ミクローシュ男爵もナショナリズム運動として競馬を推進し、これらに加えて国民の勇敢さなどの男性性の向上にも有益だと考えていた。
競馬はハンガリーの都市 ペシュトで流行し、詩人たちもこれに熱狂して詩を残している。