目次
オンラインコラム1:水の動力利用(水力)の歴史
オンラインコラム2:電気の発見
オンラインコラム3:エジソンによる白熱電灯事業
オンラインコラム4:日本の電気事業の始まり
オンラインコラム5:日本の電気鉄道の始まり
オンラインコラム6:「電流戦争」の行方
オンラインコラム7:初期における水力発電開発
オンラインコラム8:工場電化は工場建物を変えた(キューブからフラットへ)
オンラインコラム9:第一次世界大戦と水力発電の躍進
オンラインコラム10:我が杭におけるダム式水力発電の導入
オンラインコラム11:両周波数発電所の導入
オンラインコラム12:小説『高熱隧道』
オンラインコラム13:水力発電所の運転自動化
オンラインコラム14:関東地方における送電線の発達
オンラインコラム15:“共産主義とは、ソビエト権力プラス全土の電化である。”レーニン
オンラインコラム16:ドニエプル川水力発電所
オンラインコラム17:テネシー川流域開発公社(TVA)
オンラインコラム18:フーバーダムとグランド・クーリー・ダム
オンラインコラム19:ペンシルヴァニア=ニュージャージー相互連結(PNJ)
オンラインコラム20:バイエルン送電網
オンラインコラム21:イギリスのグリッド
オンラインコラム22:(国家)総力戦
オンラインコラム23:10万ボルト送電時代の到来
オンラインコラム24:電力連盟から国家統制の時代
オンラインコラム25:日本発送電による送電線の整理統合と連系強化
オンラインコラム26:水豊ダム
オンラインコラム27:「傾斜生産方式」とその時代
オンラインコラム28:戦後の大型ダム式水力発電所の開発
オンラインコラム29:映画『黒部の太陽』
オンラインコラム30:河川一貫開発
オンラインコラム31:水力発電の種類
オンラインコラム32:水車について
オンラインコラム33:ダムの種類
オンラインコラム34:揚水式発電所の導入
オンラインコラム35:わが国の主要水力発電所(36万キロワット以上)
オンラインコラム36:「包蔵水力」等から見た「中小水力」の可能性
オンラインコラム37:世界における「水力発電」
オンラインコラム38:世界最大の三峡発電所
オンラインコラム39:イタイプダムとグリダム
オンラインコラム40:環境中央審議会・長期低炭素ビジョン『大幅削減の絵姿』
【オンラインコラム1:水の動力利用(水力)の歴史】
電気事業の創成期の発展の大きな原動力となった水力発電であるが、その前に、人類における水力利用の歴史について触れてみたい。水上輸送も広い意味では水力に含まれるかもしれないが、ここでは水の動力利用に焦点を絞る。水の力を動力として利用するという考えは古くからあり、水車の動力は灌漑・製粉・紡績などに用いられてきた。動力機関としての水車は紀元前二世紀ごろ、小アジアで発明されたと言われ、ビザンチウムのフィロン(Philon of Byzantium)が触れており、プトレマイオス朝エジプトの紀元前二世紀の壁画にも描かれている。奴隷労働の豊富な古代ローマ社会において水車は一般に余り普及しなかったようであるが、文明が地中海沿岸を離れ中・西ヨーロッパに移行した中世以降に、安定した水量が得られる土地柄もあり、急激にその台数を増やした。また、動力水車の使用法としては、それまではもっぱら製粉に限られていたが、十世紀ごろから工業用動力としても使われるようになる。イスラム圏ではシリア(シリア・アラブ共和国)西部のオロンテス川中流にあるハマーの水車(ノーリア)が有名であり、大規模な17基の農地灌漑用水車群が現在でも観光用として残っている。
原動機としての縦型水車は長い間、人力・畜力以外で最も主要なものであった。これは、人力・畜力にくらべてのエネルギー密度の大きな差による。蒸気機関に代わられるまでの紀元1000年から1800年頃までの間、布の縮絨(しゅくじゅう)、麻の製造、製材、鉄の整形、パイプの中ぐり、砂糖の粉砕、革なめしなど多くの用途に使われてきた。
その中には20世紀中ごろまで使われていたものもある。
「日本では『日本書紀』において推古18年(610年)高句麗から来た僧曇徴(どんちょう)が、碾磑(てんがい)という水車で動く臼を造ったといわれ、平安時代の天長6年(829年)良峯安世が諸国に灌漑用水車を作らせたとある。室町時代、15世紀に日本へ来た朝鮮通信使の朴瑞生は日本の農村に水揚水車がある事に驚き、製造法を調査し、本国に報告した事が『朝鮮王朝実録』に記述されており、江戸時代の11回朝鮮通信使においても、同様に日本の水車の普及に驚いた事が記述されている。動力水車の本格的な使用は江戸時代になってからといわれ」(Wikipedia「水車」より引用)、白米を食する習慣の広がりとともに、精米・穀物製粉のために使用されたが、江戸時代後期には工業的原動力としても部分的に使用された。日本でも古くから水力が動力として利用されていたのである。
ちなみに、東京近郊でも水車の利用は近代まで行われている。東京都板橋区加賀にあった加賀藩下屋敷では幕末には屋敷内に存在していた水車を利用して大砲の鋳造も行われた。また、加賀藩下屋敷跡は石神井川の水利が利用できる点や、万が一爆発事故が発生しても被害を最小限に留めることができる谷底低地に位置する点など、工場に最適の条件であったことから、明治政府は、明治9(1876)年に陸軍の火薬製造所を設置した。日露戦争期の火薬製造の拡大に伴い、北区の王子や滝野川など石神井川流域一帯にも分工場が作られ、首都東京に巨大な工廠群が形成されていた。陸軍の兵器廠である板橋火薬製造所(後の東京第二陸軍造兵廠)では、圧磨機圧輪(黒色火薬製造装置)に動力を伝えるため、鉄製縦軸水車を使っていた。水車から歯車・カムを経由して圧磨機圧輪を回していたという。現在板橋区ではこれらの遺構等を活かし『板橋区史跡公園(仮称)』を整備する計画がある。
旧・火薬製造所エリアには、火薬製造所時代から使用されていた建物や施設が現存している。弾丸の速度などを近代的な技術で測定したコンクリート製構築物である弾道管や、弾道管に隣接した鉄筋コンクリート2階建モダニズム建築の燃焼実験室など、火薬製造所の発展過程や研究内容を今に伝える貴重な文化財が現存しており、これらを通して近代の科学産業の実態を垣間見ることができる。(主な構成要素:発射場・燃焼実験室・火薬保管庫・爆薬製造実験室・試験室・土塁・電気軌道跡)
古い歴史のある水力利用であるが、世界で最初の水力発電は、1878年にイギリスのウィリアム・アームストロング(William George Armstrong, 1st Baron Armstrong)が自身の屋敷の照明(一個のアーク灯)を点灯させるために設置したものであるとされる。これによりアームストロングが水力発電機の発明者と一般的に見なされることも多い。これに先立ち、1838年にフランスのヒポライト・ピクシー(Hippolyte Pixii)により交流発電機の原型となる手回し発電機(ダイナモ)が発明された。ピクシーのダイナモは今も利用されている発電機や電動機の原型とみなされている。一方、同じ1832年にフランスのブノワ・フールネイロン(Benoit Fourneyron)はそれまでの製粉用などに使われていた水車とは比較にならない高性能の反動型タービンの開発に成功。当初は紡績工場の動力として使われたがやがてこれが水力発電用に使われるようになる。
【オンラインコラム2:電気の発見】
発電機の発明に触れたところで、そもそも電気の現象が人間によってどのような認識を歴史の中でされたかについても遡って触れたい。ギリシャの七賢人の一人、タレース(Θαλής)は女性が装飾品として首から下げている琥珀が衣服と擦れると軽い埃や木の葉を吸い寄せることを述べている。少なくとも紀元前600年ころには摩擦帯電の存在が認識されていたことになる。琥珀はギリシャ語でエーレクトロン(ἤλεκτρον)とよばれ今日の電気(electricity)の語源ともなっている。
摩擦帯電によって生じる電荷(静電気)は正と負で引き合うが、このことを実験的に証明したのがイギリス人で医者のウイリアム・ギルバート(William Gilbert)であり、正負両電気の存在と引斥作用を起こす電気の性質の発見は多くの学者に刺激を与え、電気に関する研究に火をつけることとなり、彼は電気工学や電気と磁気の父とされることもある。更に摩擦電気によって「火花放電」が起きることが発見されるとこの電気を貯められないかに注目が集まり、オランダのライデン大学のピーテル・ファン・ミュッセンブルーク(Pieter van Musschenbroek)により1746年にライデン瓶と呼ばれるガラスの容器を使った蓄電池が作られ、フランクリン(Benjamin Franklin)による凧を使った雷が電気であることの確認実験にも使われることとなる。イタリアのルイージ・ガルバーニ(Luigi Galvani)はカエルの解剖をする際に切断用と固定用の二つのメスをカエルの足に差し入れるとこれが震えるのを発見したことをきっかけに、1791年に“筋肉の運動における電気の力について(De viribus electricitatis in motu musculari commentarius)”で筋肉を収縮させる力を「動物電気 (animal electricity)」と名付け、自らを異種の電気伝導体の相が直列につながっていて、そのうち少なくとも1つがイオン伝導体の相であり、かつ両端の相が同じ化学的組成の電子伝導体である電気化学的な系であるガルバニ電池に名を遺した。
1800年には同じくイタリアのアレッサンドロ・ボルタ(Il Conte Alessandro Giuseppe Antonio Anastasio Volta)が最初のボルタ電池を発明。連続的に電流を作り出すことに成功した。ボルタ電池こそ最初の”発電機”と言えるものであり、ボルタの名は電圧の単位である「ボルト(V)」として今でも残っている。
1800年にデンマークの科学者ハンス・クリスティアン・エルステッド(Hans Christian Ørsted)が、電流が磁場を作り出すことを発見する。このエルステッドの「電気と磁気には密接な関係がある」との発見に立って電気が磁気を生み出すならば、逆に磁気によって電気を起こすことも可能ではないかと考えたのがイギリスのマイケル・ファラデー(Michael Faraday)である。彼は実験を繰り返し、1831年、電磁誘導理論を確立、実験的に電流の発生に成功した。その結果オンラインコラム1のピクシーによる手回し発電機(ダイナモ)の発明へと繋がるのである。
次いで1845年にはイギリスのチャールス・ホイートストーン(Sir Charles Wheatston)がそれまでの永久磁石に代わり電磁石を用いた発電機を開発、発電機大型化への道が開かれた。更に1870年にベルギーのゼノブ・グラム(Zénobe Théophile Gramme)によって環状発電子を用いた実用的な発電機が製作され、安定した強度の電流が初めて得られるようになる。
これより3年後の1873年、電動機(モーター)が偶然によって誕生したと言われる。この年、ウィーンで万国博覧会が開かれ、この会場にグラムの直流発電機が数台陳列された。その際、運転中の発電機の両極を連結しようとして、誤って他の発電機の極につなげてしまったところ、その発電機が突然反対の方向に回転し始めたという。グラムの発電機は逆に使えば電動機として利用できる電動機と発電機の可逆性が明らかになった。ハプニングからではあったが、この事は、電気を灯りとしての利用から動力へ利用への途を開くという画期的な発見であった。
【オンラインコラム3:エジソンによる白熱電灯事業】
エジソン電灯会社が世界で最初に白熱電灯による電気供給事業を開始したのは、1882年初頭にロンドンのホルボーン・バイアダクト街であったが、本格的な供給事業は同社の子会社であるエジソン電気照明会社が1882年9月にニューヨークのバール・ストリートで運転を開始した120キロワット発電機6機による85戸への電灯供給であった。エジソン会社の電気供給は火力による低圧の直流発電方式であり、供給範囲が発電所の周辺の2マイル(約3.2キロメートル)程度に限定されたうえ、低圧送電のため送電ロスは避けられず、自家発電に対するコスト対抗力も弱かった。コスト面からは燃料費のかからない水力が有利な面が多く、アメリカではエジソン(Thomas Alva Edison)の第2発電所が1882年9月にウィスコンシン州のアップルトンにおいて水力で運転を開始し、製紙工場に電灯を供給した。これ以降、電気事業は大きな発展を遂げることとなる。(なお、米国ではこれに先立ち1874年にナイアガラの滝の近くに水力発電所(Robert Moses Niagara Hydroelectric Power Station)が竣工しているがほとんど発電していないと言われる。(オンラインコラム6も参照)
【オンラインコラム4:日本の電気事業の始まり】
日本で最初の電灯の点灯が試みられたのは明治8(1875)年の事であった。イタリア歌劇団の公演が工学寮(現在の東大工学部)のホールで行うことになり、工学寮のウィリアム・エアトン教授の指導によって、オキシハイドレジェン灯とアーク灯を点灯しようとした。この際は点灯したがすぐに消え全くの失敗に終わっている。
ちなみに、「明治6(1873)年に創設された工部省工学寮電信科(現東京大学工学部電気系二学科 の前身)は、我が国で最古、また世界で「電(electric)」の字を冠する最古の電気系学科 と言われている。英国人ウィリアム・エアトン(William Edward Ayrton)が約二十名の日本人学生を指導するとともに我が国の電気工学の基礎を築いた。教え子の中には、電気学会の創設を主唱した志田林三郎、日本のエジソンと呼ばれている藤岡市助、我が国最初の国立研究所である電気試験所の初代所長を務めた浅野応輔など錚錚たるメンバーが並んでおり、我が国電気工学発展のルーツが正にこの電信科にあると言っても過言ではない。明治11(1878)年3月25日に、工部省中央電信局の落成晩餐会が工部大学校で開催された際、エアトン教授とその教え子はわが国初の電気灯(フランス製 アーク灯)を公開の場で点灯させた。この3月25日は我が国の「電気記念日」とされた。」
注:「」内は電気学会第6回「でんきの礎」小冊子より「工部省工学寮電信科と W. E. エアトン」の内容を要約している
https://www.iee.jp/file/foundation/data02/ishi-06/ishi-1213.pdf
その後、さまざまなイベントに際して電灯が点灯されたが、このころの電灯はアーク灯であった。明治15(1882)年には我が国初の電力会社である東京電灯の創立事務所が置かれた銀座の大倉組の前に2000燭光のアーク灯がともされ、ようやくアーク灯も実用化の段階に達した。白熱灯が最初に点灯されたのは、アメリカでの白熱電灯供給による電気事業がスタートしてからわずか2年後の明治17(1884)年、上野~高崎間の鉄道開通式に際して、上野駅に白熱灯24灯、アーク灯1灯を点灯したのが初めてであると言われる。そして、明治19(1886)年7月には東京電灯が開業し、日本で最初の電気供給事業がスタートした。このように、日本の電灯事業は、アメリカやイギリスとほとんど同時に出発したことが特徴である。
日本で最初に水力発電が導入されたのは明治21(1888)年の宮城紡績会社三居沢(さんきょざわ)工場である。紡績機械の動力用として設置していた国産40馬力の水車を用いて、三吉電機工場製の5キロワット直流発電機を運転し、工場の夜間作業用に白熱電灯とアーク灯を点灯したものであった。
【オンラインコラム5:日本の電気鉄道の始まり】
日本で最初の電気鉄道の営業は、明治28(1895)年の京都電気鉄道株式会社による伏見線の開業であり、現在の京都駅前にあたる七条停車場と下油掛の間の約6.7キロメートルの狭軌線路を電気鉄道が直流電化方式で運行した。これら明治期の古都における事蹟は、水力発電事業及び電気鉄道事業の発祥地であるとともに、電気普及に向けた発電から鉄道にいたる当時の先進的かつ全体的な取組みを示すものとなっている。
<参考>電気学会「でんきの礎」小冊子 明治期の古都における電気普及の先進事蹟~琵琶湖疏水による水力発電および電気鉄道に関する事業発祥の地~(https://www.iee.jp/file/foundation/data02/ishi-03/ishi-0809.pdf)
【オンラインコラム6:「電流戦争」の行方】
元々、エジソン社には多相交流発電機や多相交流電動機の開発で知られるテスラ(Никола Тесла: Nikola Tesla)ら優秀な交流技術者がおり、交流部門への進出は容易にできる環境にあったと言われる。しかしエジソンの頑迷さは交流への進出を拒否。その結果、テスラはエジソン社を退社、ウェスティングハウス社に二相交流方式の特許を売り渡す。ウェスティングハウス社はテスラの特許をもとに二相交流発電機を製作、これを1896年に運転開始したE・D・アダムズ発電所(日本ではナイアガラ発電所の名で呼ばれることも多い)に採用した。E・D・アダムズ発電所(Edward Dean Adams Station、現・アダムズ発電所変圧場、Adams Power Plant Transformer House)には5000ボルト・3700キロワットの発電機12台を設置、これを1万1000ボルトに昇圧して40キロメートル離れたバッファロー市へ送電され、大電気化学工場や冶金工場に供給された。アルミニウム電解工場や炭化ケイ素(カーボランダムの商品名で呼ばれることも多い)がここで初めて製造された。水力発電機の銘板にはテスラの名が刻まれている。ナイアガラの滝では1759年以来、工場動力源として水力を使用してきたが、1882年まで発電に使われことは無く、規模も小さかった。(オンライコラム3も参照)
<参考> NY Falls “Niagara Falls FAQ: When and where was electricity first generated at Niagara Falls? Was electricity discovered at Niagara Falls?”
https://www.nyfalls.com/niagara-falls/faq5/
この成功が交流の有利性を明確化させた。その結果、白熱電灯の研究開発から直流方式の電力技術を確立し、1890年頃にはアメリカにおいて独占的地位を誇ったエジソン社であったが、新たに台頭してきた交流方式の電力技術を理解しなかったために、技術的にも経営的にも硬直化し、同社を金融面から支援していたモルガン資本によって、交流方式を推進していたトムソン・ハウストン社(Thomson-Houston Electric Company)と合併させられ、ゼネラル・エレクトリック社(General Electric Company、略称: GE)となった。同社は電力部門で交直両方式を備えることになり、交直論争は実質的に終止符を打たれることとなった。
エジソンvsウェスティングハウス(George Westinghouse, Jr)+テスラの壮絶な「電流戦争」は2015年にアメリカでテレビドラマ化(2017年に日本国内でも放送(NHK・BS世界のドキュメンタリー『電流戦争!エジソンVSテスラ』))、2017には映画化“The Current War”もされた。(映画はハリウッドの映画プロヂューサーによるスキャンダルにより2019年3月時点で未公開。近日配給開始の報道もある。)
<参考>TEASER-TRAILER.comの“The Current War”に関する報道
https://www.teaser-trailer.com/movie/the-current-war/
https://www.youtube.com/watch?v=2FTxKFsWz60
【オンラインコラム7:初期における水力発電開発】
明治40(1907)年12月竣工の駒橋発電所(出力1万5000キロワット、駒橋~早稲田間の電圧5万5000ボルト、送電距離76キロメートル)であり、その水準は飛躍的に高まり日本における「長距離送電時代」を迎える。
関東では明治42(1909)年の箱根水力電気・塔ノ澤発電所(3300キロワット)、大正元(1912)年の鬼怒川水力電気・下滝発電所(2万4000キロワット)、大正2(1913)年の桂川電力・鹿留発電所(1万5000キロワット)、大正3(1914)年の猪苗代水力電気・猪苗代発電所(3万7500キロワット)、中部では明治43(1910)年の名古屋電灯・長良川発電所(4200キロワット)、明治44(1911)年の同・木曽川発電所(1万キロワット)、関西では大正2(1913)年の宇治川電気・宇治発電所(2万5000キロワット)などである。
猪苗代発電所は東京の田端変電所まで225キロメートルを11万1500ボルトで送電し、我が国における大送電網の発端とも言われる。猪苗代湖は安積疎水によって湖水調整の設備が整備され、猪苗代湖を貯水池として利用することにも特徴があった。
大都市周辺で鉄道馬車から市街電車に転換される(現在でも鉄道の軌道幅に馬車軌の名称が残っている)など、多くの電気鉄道会社が設立され、旅客輸送における電力需要が伸びる。東京市内での電車運転は、東京電車鉄道(元の東京馬車鉄道)が明治36(1903)年に架空線方式によって新橋-品川間の運転を開始したのが最初である。
一方、電力事業を兼営していたことも特筆され、関東を例にとると東京鉄道(明治40(1907)年)、京浜電気鉄道(明治42(1909)年)、玉川電気鉄道(明治41(1908)年)、王子電気軌道(明治43(1910)年)、川越電気鉄道(明治38(1905)年)、駿豆電気鉄道(明治29(1896)年に電灯事業として開業・明治39(1906)年に鉄道事業を開始)などである。
【オンラインコラム8:工場電化は工場建物を変えた(キューブからフラットへ)】
イギリス産業革命で思い出すことの一つは紡績機が人力から動力へ変わったことであろう。動力は当初水力、やがて蒸気機関になったのだが、水車なり蒸気機関なりの回転力を歯車やシャフト、ベルトを介して自動織機に伝達していた。従って、この動力を伝達するのに最も効率の良い建物は立方体(キューブ)であり、当時の工場は現在一般的に思い浮かべられる平屋(フラット)ではなく高層の建物であった。
イギリスの「ダーウェント渓谷の工場群」は世界遺産にも登録されており、工場システムの発祥の地ともいわれ2001年にユネスコの世界遺産に登録された。比較的大規模なものとして初めて水車が動力に体系的に用いられた。絹糸投げと綿糸紡績はイギリス経済に劇的な影響を与えて革命をもたらしただけでなく、アークライトモデルシステムは他国の産業発展にも多くの影響を与えた。その後、ランカシャーで都市ベースの綿工場技術がさらに発展したため、ダーウェントバレーの初期工場がそのまま残った結果、初期の工業用建物とそのコミュニティが保存されている。当時の紡績工場は下記のように高層建築で、これは動力が蒸気機関に代わっても変わらなかった。
<参考>ダーウェントバレー工場群世界遺産サイト
https://www.derwenTVAlleymills.org/
しかし、電化による電動機の普及は機械設備によって直接動力を与えられるようになり、工場内に分散して動力源の設置が可能になる。このため、現在のように平屋建ての建物が経済的なため一般的になった。我が国においても第一次世界大戦の好景気を契機に工業化が進展するが、それと共に工場の電化も急速に普及した。一方、イギリスなどでは工場経営者等経験の長いものほど従来の蒸気機関等に馴染みがあり、この因習から工場の動力源の転換には50年程度の年数を要したと言われる。これはイギリス産業の競争力減退の一因であったかもしれない。
また、家庭においても電灯需要が水力開発による料金低廉化と東京電灯の系列会社である東京電気がアメリカのGE社と技術提携し、明治40からタングステン電球の製造を始めたことから急速に普及する。
その後も家庭における電灯普及は順調に進み、昭和10年頃の普及率は欧米に比べても遜色の無いものであった。
その後も家庭における電灯普及は順調に進み、昭和10年頃の普及率は欧米に比べても遜色の無いものであった。
【オンラインコラム9:第一次世界大戦と水力発電の躍進】
我が国の水力発電を主体とした電気事業躍進の原動力となったのは第一次世界大戦によってもたらされた我が国経済の未曽有の好景気である。戦争により石炭価格はそれ以前に比べ3倍にも高騰、一方、大規模水力開発に伴い電気料金は低廉化、産業界では工場の動力源を石炭燃料の蒸気機関から電動機に切り替えるところが相次いだ。大正3(1914)年に36.3%であった産業電化率は大戦終結の翌年である大正8(1919)年には66.5%に達している。また、電気が電熱・電解用にも使われるようになり、カーバイド、窒素肥料などの電気化学工業や、電気冶金工業といった電力多消費産業の発展も見られた。その結果、電力需要は急増し、大正元(1912)年に8万5000キロワットであった全国電力需要は大正8(1919)年には88万3000キロワットと約10倍にも伸びている。これに伴い、発電電力量も下図のように急速に伸長している。それを支えたのは水力発電であった。
【オンラインコラム10:我が杭におけるダム式水力発電の導入】
我が国初の発電取水用ダムは大正元(1912)年完成の下滝発電所における黒部ダム(高さ33.9メートル・有効貯水量は116万立方メートル、重力式石造ダム)だと言われる。我が国において、ダム水路式でなく純然たるダム式発電所の最初は大正7(1918)年完成の北海道の野花南発電所(高さ21メートル、堤長246メートルの重力式ダム、有効貯水量100万立方メートル、運転開始時の出力5100ロワット)であった。野花南発電所が嚆矢であったのに対し、ダム式水力発電所にエポックを画したのは大正13(1924)年完成の大同電力による木曽川水系・大井発電所(出力4万8000キロワット)である。大井ダムは高さ53メートル、堤頂長276メートル、堤体積15万立方メートルのコンクリート重力ダムで有効貯水量925万立方メートルと本格的な高ダム築造である。
【オンラインコラム11:両周波数発電所の導入】
発送電設備の突発的事故や、急激な需要増の発生時に東側、西側内だけでの電力融通では間に合わない。そこで、関東と関西にまたがった黒部川、木曽川、天竜川水系に50ヘルツ・60ヘルツの両周波数を発電できる設備を設ける動きが生まれる。最初の両周波数発電所は、木曽川に大同電力が大正12(1923)年に建設した桃山発電所(出力24,600キロワット)である。水車は縦軸フランシス水車(19,800馬力)、発電機は三相交流動機発電機(15,000キロボルトアンペア)2台でいずれもウェスティングハウス社製であった。50ヘルツ・60ヘルツの切り替えは切り替え開閉器による結線替えで行われた。これに続き、昭和2(1927)年には黒部川水系の柳河原発電所が続く。昭和11(1936)年完成の黒部川第二発電所では両周波数共用のランナーを使用し、発電機のコイルも接続替えしないで界磁電流の調整のみで両周波数向けに電力を送れるようになり、同方式は昭和15(1940)年運転開始の黒部川第三発電所(同発電所の建設にまつわるエピソードはオンラインコラム12参照)にも用いられた。以降、戦後電源開発株式会社の300,000キロワット佐久間周波数変換所の完成まで本州中央山岳地帯に開発された発電所のほとんどは50ヘルツ・60ヘルツ両周波数の設計となった。
【オンラインコラム12:小説『高熱隧道』】
戦前・戦後における我が国水力開発を取り扱った小説として「高熱隧道(こうねつずいどう)」と「黒部の太陽」(オンラインコラム29参照)が有名であり、特に「黒部の太陽」は映画化もされた。
『高熱隧道』は、吉村昭の長編ノンフィクション小説。昭和42(1967)年に新潮社から刊行。日本電力黒部川第三発電所水路トンネル、欅平駅~軌道トンネル(現関西電力黒部専用鉄道)の工事現場や人間関係について、建設会社の現場土木技師の目を通じて描いた作品。同発電所は昭和11(1936)年着工、昭和15(1940)年完成。同発電所では50ヘルツと60ヘルツの両周波数共用のランナを使用し、発電機のコイルも接続替えしないで界磁電流の調整のみで両周波数向けに電力を送れる当時最新の技術が導入された。「日本電力」は実在の会社。黒部川上流の黒部峡谷は、雨量、河川勾配から、早くから電源開発の最好適地として注目されてはいた。しかし、そこは、資材を運搬するだけでも転落死する者が出るほどの、秘境に近い環境だった。発電所から峡谷までの水路・人道の建築では工事現場の地下に高熱の断層が通っており、わずか30メートル掘り進んだだけで岩盤温度は摂氏70度を超えた。岩盤温度は奥に進むにつれて上昇、作業者に水をかけて冷却するなどの策を講じて工事を進めていくが、岩盤の温度によってダイナマイトが自然発火・暴発を起こしたのを皮切りに、泡(ほう)雪崩で鉄筋コンクリート造の宿舎が根こそぎ飛ばされるなどの事故が発生し、異例の数の犠牲者が出ていく。雪崩の犠牲者も含めた全工区の犠牲者は300人余りで、同時期に完成した丹那トンネル工事の犠牲者を大きく上回った。戦時経済体制のための電源開発は至上命令だったため、国家総動員法のもとに人海戦術で工事が進められ、当時の労働者の平均月収の10倍以上に当たる、2時間5円、日当10円という給金で作業員が駆り集められたといわれる。これだけの犠牲を出し、完成した発電所出力は8万1000キロワットと、今となっては柏崎刈羽原子力発電821万600キロワットの101分の1であった。
【オンラインコラム13:水力発電所の運転自動化】
水力発電所の運転が自動化される前は運転業務と保全業務のために発電所ごとに多くの人員を配置していた。始動や運転、停止といったことも運転員がそれぞれの機械を直接手で操作する。また出力や電圧、周波数などの調整も計器類を見ながら行うというものだった。運転記録も巡視点検、手入れも人手に頼っていた。配電盤室には複数の人員を置き、水車室にも当直員を配置、取水口や上水槽にも人を置くという具合であった。アメリカでは1917年に水力発電の自動制御方式が採用され、これを受け我が国でも大正11(1923)年矢作川水系の尾三電力・旭発電所(出力1万3000キロワット)で、誘導発電機が半自動化、翌大正12(1924)年東邦電力がGE社の方式を採用し、九州の川上川第四発電所(出力1200キロワット)で本格的な自動化を行っている。
【オンラインコラム14:関東地方における送電線の発達】
【オンラインコラム15:“共産主義とは、ソビエト権力プラス全土の電化である。”レーニン】
マルクス主義では社会主義社会は高度に工業化された社会において実現されると考えたレーニンが1920年の「第二の党要綱」で述べた言葉。十月革命(ソビエト革命あるいはボリシェヴィキ革命)によって権力を得たレーニンらボリシェヴィキは、欧州大戦から一転して欧州社会主義革命に進むことを期待したが、ヨーロッパ全土で反政府運動が起きロシアに続いて社会主義の友邦になる国はヨーロッパには現れず、周囲を敵対国に囲まれることになった。ボリシェヴィキが進めた共産主義化・計画経済化(「戦時共産主義」)は、内戦の混乱や諸外国による経済封鎖ともあいまって経済の崩壊という結果に終わり、1921年に新経済政策(ネップ)が施行され、軌道に乗るまで経済の混乱は収束しなかったため、レーニンの電化プログラムは未完に終わった。
1972年にソビエト連邦で製作された短編アニメーション映画『電化を進めよ』(原題:
Плюс электрификацияПлюс)でも取り上げられ、十月革命後、全産業を電化という基礎の上に立て直してこそ初めて社会主義が実現するであろうと宣言し、全ロ電化委員会を設立したレーニンを称え、社会主義に約束された輝かしい未来を描いたプロパガンダ作品だが、最後に、赤旗を掲げて走る超特急を背景に、“共産主義とは、ソビエト権力プラス全土の電化である。”というレーニンの言葉で締めくくられている。
Плюс электрификация
https://www.youtube.com/embed/lTYFaOQf_jQ
「電化」は「第二の党要綱」と言われた。世界革命の教義はレーニンの死後、トロツキーとの権力争いに勝利したスターリンによって一国社会主義に転換され、そこで行われたのが第1次5カ年計画であるが、レーニンの電化の精神は受け継がれる。この計画の下で工業建設、農業集団化は猛烈なスピードで進み、1932年までにソ連を先進資本主義諸国と並ぶ工業国に仕上げ、集団化の強行による農業生産の増産が進められた。当時アメリカ・イギリスなど資本主義国は、1929年に始まる世界恐慌の真っただ中にあったが、社会主義経済体制をとったソ連はそれに巻き込まれることがなかった。その成功を足場にスターリンは独裁的な権力を掌握したのである。実際には、農業集団化は農民の生産意欲を落とし、生産量が著しく減退した。1931年と32年は凶作が重なり、数百万人単位の餓死者が出たといわれる。当時、世界恐慌に苦しんでいた資本主義諸国では事実を知らないため、ソ連の5カ年計画は「計画経済」の成功と受け取られていたが、その実態が明らかになったのは1990年のソ連崩壊後の事であった
【オンラインコラム16:ドニエプル川水力発電所】
1932年10月、ドニエプル川水力発電所(ウクライナ・ザポロージエ市)の第1期建設工事が終わり、5つの発電ユニットが竣工。この発電所は、欧州最大であり、ダムの高さは60メートル、堤頂長760メートル。工事がすべて完成した1939年には出力は56万キロワットとなり、発電所の供給する電力を利用して、周辺には、製鉄、アルミニウム、マグネシウム、鉄合金、コークス化学などの工場、コンビナートが次々に建設された。この結果、1928年にはイタリアの55%、フランスの40%、イギリスの35%、カナダの30%、ドイツの20%、アメリカの5%であった発電設備は拡大し、1935年には発電電力量は約260億キロワット時に達し、発電量においてアメリカ、ドイツに次ぐ位置になった。
1920年代、欧米は黄金の20年代と言われ繁栄を謳歌しているかに見えた。そのため、ソ連の躍進はあまり関心を持たれなかった。これを覚醒させたのが1929年10月24四日の木曜日の「暗黒の木曜日)」にウォール街に端を発した『大恐慌』である。大恐慌により資本主義経済内における発電電力量は例外なく減少ないし停滞を見せた。アメリカは1935年には1929年の88%、ドイツは84%に減った。
【オンラインコラム17:テネシー川流域開発公社(TVA)】
テネシー川流域はかつて肥沃な土壌と温和な気候、豊かな降雨量に恵まれていた土地であったが、19世紀末に森林伐採により土壌浸食がすすんでいた。流域では元々第一次世界大戦のための火薬製造を目的とした窒素工場と硝酸工場のために国家プロジェクトとしてアラバマのマッスル・ショールズ近くに1918年からウィルソンダムが建設され1924年に完成していた。ダムは高さ42メートル、堤頂長1384メートルの規模を誇り、発電出力は66万3000キロワットであったが、第一次世界大戦の終結により平時経済に移行したため、官営案と民間払い下げ案が対立し、クーリッジ、フーバー両大統領の下で議論となっていた。また、同時に河域を総合的に開発されるための準備が進められ、陸軍による空中写真による測量が行われるなどの素地があった。このような背景のもと、TVAは、アメリカ国内電力史において連邦政府による電力の運営形態を初めて生み出したものであり、水力発電の新たな発展段階を切り開いたものとして世界の注目を集めるものであった。開発は1933年にノリスダム工事をもって始まり、TVAは1943年までに26のダムを持ち、1944年には120億キロワット時の電力を供給。内陸水運の開発や洪水管理も行い、農業電化を進める一方、電力をアルミニウムや火薬をはじめとする軍需生産に振り向けられることとなった。TVAの効果は限定的であったとの見方もあるが、州など地方自治体レベルで放置されていたアメリカ南部の貧困に対し、電力供給、マラリアの撲滅、図書館の建設などによって国家的レベルでそれを不可逆的に断ち切らせたとして評価する意見もある。アメリカ合衆国では政府にいかなる経済的企業をも禁ずる法文化と憲法を持っていた。政治的・イデオロギー的な管理や計画がタブー視された当時の状況で、ダムと水門が過去にあったような破局的な大洪水を防ぎ、農村電化による生活の向上と豊かな土壌の回復を生んだ。
【オンラインコラム18:フーバーダムとグランド・クーリー・ダム】
フーバーダム(Hoover Dam)はアメリカを代表する大ダムで、歴史的に見ても有名なダムの一つである。アリゾナ州とネバダ州の州境に位置するコロラド川のブラック・キャニオン(Black Canyon)にある。このダム建設を契機として、河川総合開発の機運が高まり、ルーズベルト大統領のTVA設立の先駆となった。建設当時の名称はボールダーダム(Boulder Dam)だったが、1947年に着工当時の大統領ハーバート・フーバー(Herbert Hoover)にちなんで改称された。1931年着工、1936年完成。堤高221メートル、堤頂長379メートルの重力式アーチダム。コロラド川の氾濫防止だけでなく、ラスベガスへの電力供給や灌漑、ロサンゼルスへの水道水の確保などを目的とした。1948年までは世界一の水力発電所だった。現在53基の発電機があり、年間発電電力量は400億キロワット時になる。ダム湖はミード湖と呼ばれ、貯水量は約10兆ガロン(約380億トン)。日本には約2500のダムがあるが、それらの貯水量の合計は250億トン程度、日本最大の湖である琵琶湖の貯水量でも280億トン程度である。日本との規模の差が伺える。フーバーダムの堤頂の道路は、国道93号線となっている。片側1車線でボトルネックとなっているため、ダム直下にバイパス道路として日本の大林組によりコロラドリバー橋が、2010年10月に竣工した。フーバーダムは1985年にアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定された。ラスベガス(ネバダ州)から近いことも有り多くの観光客が訪れる。
グランド・クーリー・ダム(Grand Coulee Dam)は、アメリカ合衆国ワシントン州を流れるコロンビア川に建設されたダム。実業家ヘンリー・J・カイザーのもと、水力発電を行うために建設したもので、フーバーダムと合わせ、アメリカで特に有名なダムのひとつとして数えられる。ダムが堰き止めることで形成された貯水池は、ダムの構想から完成までを統括したフランクリン・ルーズベルト大統領の名をとってルーズベルト湖(Franklin Delano Roosevelt Lake)と名付けられた。ダム堤頂長約1.6キロメートル、高さは168メートルありナイアガラ滝の二倍以上、ギザの大ピラミッドよりも高い。堤体積は915万立方メートルで、コンクリート構造物としてはアメリカ合衆国最大、コンクリートダムとしても北米最大である。グランド・クーリー・ダムは、砂漠地帯であったコロンビア盆地への灌漑用水供給を目的とした公共事業(Columbia Basin Project)の一環として建設計画が立案された。建設は1933年12月月に始まり、第二次世界大戦の初期である1940年に当時世界最大のダムとして完成した。当時は戦争中であり、アルミニウムの精錬などに利用するための電力を発生することが第一とされ、マンハッタン計画の一部分として、ハンフォード(Hanford) にあるハンフォード核施設(Hanford Site)のプルトニウム生産用原子炉と再処理工場の稼働にも利用された。現在では発電所数4、水車発電機台数33、落差116メートル、最大総出力680万9000キロワット、年間発電電力量210億キロワット時となり、アメリカ合衆国最大、世界でも6番目に大きい水力発電所となっている。
<参考>
フーバーダム・オフィシャル・サイト
https://www.usbr.gov/lc/hooverdam/
グランド・クーリーダム・オフィシャル・サイト
https://www.usbr.gov/pn/grandcoulee/
鹿島建設ホームページ『建設博物誌』ダム
https://www.kajima.co.jp/gallery/const_museum/dam/
※この項目はフーバーダム・オフィシャル・サイト、グランド・クーリーダム・オフィシャル・サイト、鹿島建設ホームページ『建設博物誌』ダム、wikipediaその他を参考に作成。
【オンラインコラム19:ペンシルヴァニア=ニュージャージー相互連結(PNJ)】
ペンシルヴァニア=ニュージャージー相互連結(PNJ:Pennsylvania-New Jersey Interconnection)はフィラデルフィア電気、ニュージャージーの公益事業電気ガス、ペンシルヴァニア電力・電灯の3つの電気事業体が高圧グリッドで相互接続するために1927年に設立され、各システムから22万ボルトの送電線を2本ずつ他の二つのシステムに出し幹線リングを1930年に完成させ、これに1928年完成のコノウィンゴダム(堤高32メートル・堤頂長1433メートル・堤体積50万5000立方メートル)27万8000キロワットを接続する。この結果、当時としては世界最大の中央から制御された150万キロワットの電力プールが生まれた。
<参考>コノウィンゴダム建設記録映像(©Exelon)
https://www.vimeo.com/169288671
【オンラインコラム20:バイエルン送電網】
相互連結によりバイエルン送電(Bayernwerk)の年間負荷の80%を水力発電所が、残りを石炭火力発電所が負担することが可能になると当初企画されていた。相互連結がない場合は石炭火力発電所が40~50%を担わざるを得ず、石炭の乏しいバイエルンでは重大な問題であった。1928年バイエルン送電網がプロイセン電気会社などと共同出資でドイツ電気株式会社を設立した。ハンブルクとバイエルン・アルプスを一体の送電網とする目的の企業であり、ここへワルヘン湖発電所(Walchensee Hydroelectric Power Station)が電力を供給するようになった。
<参考>weblio辞書「電気史偉人伝」『ミラー (Miller, Oskar von)』
https://www.weblio.jp/content/Miller%2C+Oskar+von
【オンラインコラム21:イギリスのグリッド】
戦間期のイギリス政府は第一次世界大戦中の電力不足問題から石炭消費の節約や電力減価低減を目指していくつかの委員会を設けて検討を行ったが十分な成果を得られなかった。しかし、1926年ウェアを委員長とする委員会を設置し電気事業の最も効率的な発展のための方策を諮問し、同年に「電気供給法」が成立、電力統制機関として中央電気庁が設置、送電の統制が行われるようになった。この方法は「グリッド」システム(ナショナル・グリッド:National Grid)と呼ばれるものである。グリッドの建設は1928年から始まり、全国を13万2000キロボルト送電線で結んだが、発電機の系統的な運転により節約された資本の額は1937年までに2700万ポンドに達し、送電線建設の投資額は10年足らずで回収されたという。また、1936年には電気庁に発電所収用の権限も与えられ、すべての発電が国家統制のもとに運営され始めた。さらに第二次世界大戦後であるが労働党政権による社会化政策により1948年電気事業は国有化される歴史を辿る。
【オンラインコラム22:(国家)総力戦】
近代的兵器が登場するまでの戦争においては、結果を大きく左右するものは、高度に訓練された兵士の能力という「質」と、軍隊の規模や兵の数という「量」を基にした軍事力であった。第一次世界大戦では機関銃を備えた強固な野戦築城と、国内の物資・人員輸送における鉄道の効果によって、防御側が圧倒的に優位な状況になり塹壕戦に代表される持久戦となった。また、戦局打開のため、戦場以外において、大量に必要となった兵器・弾薬の生産や補給にかかわる産業施設、人員や物資の輸送にかかわる鉄道やトンネル、一般船舶などが攻撃対象となる。その結果、第一次世界大戦においては、これまで一つの会戦で消耗するような膨大な資源・兵員がまたたく間に消費されるような状況が出現した。国家が国力のすべて、すなわち軍事力のみならず経済力や技術力、科学力、政治力、思想面の力を平時の体制とは異なる戦時の体制で運用して争う戦争の形態、『(国家)総力戦』である。
<参考>エーリヒ・ルーデンドルフ著・伊藤智央訳『ルーデンドルフ 総力戦』原書房 2015
https://www.harashobo.co.jp/book/b369100.html
【オンラインコラム23:10万ボルト送電時代の到来】
大正3(1914)年、猪苗代発電所は東京の田端変電所間225キロメートルを11万5000ボルトで送電したのに続き、大正12(1923)年に京浜電力が梓川の竜島発電所から横浜の戸塚変電所までの285キロメートルに15万4000ボルトの送電に成功、また大同電力も同年木曽川の須原発電所~大阪変電所間248キロメートルを完成させた。
【オンラインコラム24:電力連盟から国家統制の時代】
電力生産は発生、伝送、消費を含む一貫した体系、すなわち電力系統をもつ技術的必然性をもつ。過度な競争は事業者を疲弊させる一方、設備の重複投資など競争の無駄も次第に明らかになってくる。昭和7(1923)年には電力連盟というカルテルが結成され、同年電気事業法が改正、地域独占が黙認され、料金は認可制となった。満州事変とその拡大による軍需産業の拡大、金輸出再禁止による円安、為替ダンピングの輸出増大によって、日本はもっとも早く大恐慌から脱出することができた。しかし、総力戦を戦う上で必要となる産業合理化の観点から昭和14(1939)年、国は生産力拡充計画を決定する。この年、燃料の研究と開発にあたる陸軍燃料廠が設立され、航空機燃料増産を目的とする国策会社も設立される。また、石炭産業では女子坑内労働の特例が布かれ、朝鮮人労働者の集団移入が開始された。その結果、翌年には史上最高の出炭量を見るに至る。電力の国家管理も俎上に上がり、同年、電力管理法によって国策会社・日本発送電株式会社が設立されエネルギー部門における戦時国家独占資本体制が確立される。
【オンラインコラム25:日本発送電による送電線の整理統合と連系強化】
日本発送電の設立間もない昭和14(1939)年夏には異常渇水と石炭入手難により関西系の電力需要が危機に瀕したとき50ヘルツ運転の発電所を60ヘルツ運転に切り替えて救援するなど大規模な地帯間融通が我が国で初めて行われた。系統の連絡運用向上により昭和18(1943)年6月には関西地区で無火力運転に成功するに至る。翌年には戦局の悪化による工業生産の低下もあって渇水期にも電力使用制限をする必要がなかった。昭和20(1945)年4月には本土空襲の中、関門送電線の建設が開始され(終戦後の12月に完成)、本州中央部の水力電気を九州に送り込むことができるようになり、火力発電は極度に圧縮され、ある期間には九州地方の火力発電が全部停止できるという、当初は予想もされなかった需給状況が現出する。
【オンラインコラム26:水豊ダム】
水豊ダム(スプンダム、すいほうダム)は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)平安北道の朔州郡と中華人民共和国遼寧省の寛甸満族自治県の鴨緑江上流(中朝国境)にあるダムである。日本植民地時代の末期に8年の歳月をかけて建設され、その強力な発電能力は北朝鮮に戦後から莫大な富と電力をもたらし、1948年春に金日成主席によって国章に含まれるまでなっている。朝鮮半島が日本の統治下であった昭和12(1937)年に満州国と朝鮮の電力確保の為、建設が開始された。建設されたのは鴨緑江下流の平安北道新義州府(現在の新義州市)から80キロメートル地点の日満国境(現在は中朝国境)であった。昭和15(1940)年芝浦製作所と電業社が10万キロボルトアンペア発電機5台とこの発電用水車10万5000キロワット7台を納入する。これは当時世界最大であった。また同発電所からは東洋初の22万ボルト送電線が北朝鮮と南満州に敷設され、その建設に要する10万キロボルトアンペア級の最大容量を誇る多数の変圧器、23万ボルトの膨張遮断器が国産化されるなど我が国電力機器製作技術は頂点に達する。しかし昭和17(1942)年以降は資材と労働力の不足により生産体制そのものが崩壊し、戦争による技術先進国との交流途絶は技術力の停滞を余儀なくさせた。ちなみにこの水豊ダムは、当時、グランド・クーリー・ダム(アメリカ)に次いで世界第2位であった。ダムは、高さは約106メートル・幅約900メートル・総貯水容量116億立方メートルであり、建設当時は東洋一の規模を誇った。ダムによって形成された水豊湖は長さ100キロメートル・面積345平方キロメートルにも達し、湛水面積は日本の琵琶湖(670.33平方キロメートル)のほぼ半分に相当する。
【オンラインコラム27:「傾斜生産方式」とその時代】
大戦終了直後の日本では物資の欠乏により急速なインフレーションが進んだが、昭和21(1946)年12月27日日に『昭和二十一年年度第四四半期基礎物資需給計画策定並に実施要領』を閣議決定し、「国内施策の一切を石炭の増産に集中する」、さらに「石炭の配分に必要なる諸資材の確保に最重点を施行し」資材の中で特に鉄鋼を重視した政策をとる。「傾斜生産方式」である。具体的には、石炭・鉄鋼を重点的に増産し、さらに化学肥料、電力などの重点的な産業に資材を重点配給することとした。資金供給面での対応を行う機関として、昭和22(1947)年1月に復興金融金庫(後の日本開発銀行、現在の日本政策投資銀行)が開業、復興金融金庫による過剰な資金投入に伴う通貨供給量の増大などの要因からインフレーションが加速し、「復金インフレ」とも呼ばれる状況が現出した。その間、米ソ関係の冷却化を背景にGHQには、自由主義経済の考え方に立ち、統制経済からの脱却を日本に求める傾向が強まり、昭和23(1948)年に日本の経済は両足を地につけておらず竹馬にのっているようなもので竹馬の片足は米国の援助、他方は国内的な補助金のであると、我が国経済の自立と安定とのため財政金融引き締め政策によるインフレ収束を目指したドッジ・ラインが導入され、安定恐慌に陥る。
【オンラインコラム28:戦後の大型ダム式水力発電所の開発】
電源開発による佐久間ダム発電所に続くものが、只見川上流部の奥只見(出力36万キロワット・ダム高157メートル)、田子倉(出力38万キロワット・ダム高145メートル)、黒部峡谷の黒部第四(出力33万5000キロワット・ダム高186メートル、オンラインコラム29参照)、庄川筋の御母衣(出力21万5000キロワット・ダム高131メートル)などである。また、ダムの形式の多様化もこの時代の特徴である。それまでの我が国のダムは土堰堤か重力式コンクリートダムが殆どであったが、土木技術の進歩を背景に地形や地質に応じた多様なダムが築造された。アーチダムや中空重力式ダム、ロックフィルダムなどである。
<参考>電気学会「黒部川第四発電所」
https://www.iee.jp/file/foundation/data02/ishi-06/ishi-1213.pdf
【オンラインコラム29:映画『黒部の太陽』】
『黒部の太陽』は、木本正次による昭和39(1964)年に毎日新聞に連載された小説。昭和44(1998)年に三船敏郎・石原裕次郎主演で映画化され、男たちのロマンとそのスケールの壮大さが大きな話題となった。当時、世紀の難工事と言われた黒部ダム建設の苦闘、特にトンネル工事を描いている。黒部川第四発電所(通称くろよん)建設において、資材輸送の要となった関電(大町)トンネル(長野県大町市から富山県中新川郡立山町)の工事では岩盤の中で岩が細かく割れ、地下水を大量に溜め込んだ軟弱な地層である破砕帯に遭遇し、この破砕帯を突破するまでに約7ヶ月もの月日がかかった。この映画製作には、施工を担当した熊谷組の愛知県豊川市内の工場敷地内に本物そっくりのトンネルセットを組み立てて撮影が行われ、迫力ある映像が有名である。出水を再現するために420ンの水タンクを作り水槽のゲートが開かれる10秒でこの420トンの水が流れ出し、役者もスタッフも本気で逃げた。三船は、水が噴出する直前に、大声で「でかいぞ」と叫び、裕次郎らと走るが、そのときの必死の姿をカメラがとらえている。撮影時には、石原裕次郎他数人が負傷した。この映画を見たことをきっかけでダム工事に携わる仕事についた技術者も多いと言われる。黒部川第四発電所は現在、最大出力33万5000キロワット。(昭和38(1963)年の完成当初の認可出力25万8000キロワット。しかし、今となっては柏崎刈羽原子力発電所の25分の1でしかない)
【オンラインコラム30:河川一貫開発】
水力開発の初期に全国の河川で多くの事業者によりそれぞれの思想と事情により建設された発電所を、河川利用の面から水系として一貫した計画で見直す、あるいは、老齢化した発電所のスクラップ・アンド・ビルドの機会に、単に再建設するだけでなく、付近の河川を本支流一貫の計画の中で再編成することにより、大規模な水力開発をしようとするなど様々な形態がある。
『一水系一事業者の思想が古くから反映されている水系』
①飛騨川水系
②木曽川水系
③関川水系
『土木技術の発達により可能となった水系』
①天竜川水系
②阿賀野川水系
③黒部川水系
④大井川水系
⑤庄川水系
『「前史」を経ることなく当初から一貫開発された水系』
①十勝川水系
②新宮川(熊野川)水系
『流域変更が大胆に取り入れられた水系』
①日高地方
②吉野川水系
『再開発によるウ河川の一貫開発』
①信濃川水系
②梓川水系
『多目的に参加した一貫開発』
①利根川水系
②奥利根
『その他の一貫開発』
①常願寺川
②太田川
③耳川
④北上川
=飛騨川水系の例=
【オンラインコラム31:水力発電の種類】
『一般水力』
①流れ込み式(run-of-river type)
河川の自然流量をそのまま利用する発電所で、水路の途中に調整池を持たない水路式発電所。発電所の出力は河川流量に比例し、任意での出力調整は難しい。総電力需要のうちベース部分をまかなう。比較的小規模なものが多い。電気事業の初期の時代の水力発電所は全てこの流れ込み式であった。大河川の主要部は大ダムを伴う水力開発が殆どし尽されている。このため、河川上流や支流・渓流に数多く残された未開発水力地点はこの方法が多く採用されると考えられる。
②調整池式(regulating reservoir type)
1日間ないし1週間程度の電力需要変動に対応するため、需要の少ない軽負荷時に出力を落として貯水し、需要の多い重負荷時に河川自流分に貯水した水を合わせて発電するもの。総電力需要のうちピーク部分をまかなう。一般にダム式およびダム水路式発電所がこれにあたる。調整池式水力は昼間のピーク負荷を分担し、1日のうち6~8時間程度の発電ができればいいので、河川流量に比べ最大使用水量をかなり大きく取れ、その分キロワット当たりの建設費は安くなる。水力地点は経済的に有利なものから開発されてきたので、残存するダム式・ダム水路式地点は経済性に劣り、新規地点数も少なくなってきている。
③貯水池式(reservoir type)
季節的な河川の流量変化を、大貯水池で豊水期に貯水し、渇水期でも安定した発電ができるだけの水量を確保するもの。調整池式が日間・週間の負荷変動であるのに対し、季節間の調整を行う。また、調整池式発電所と同様に一日の負荷変動にも対応できる。総電力需要のうちピーク部分をまかなう。天然湖沼を貯水池として利用するもの、年間流量に比較して大規模な貯水量を有するダムを伴うものがある。我が国は、水量と落差には恵まれるものの、河川の豊渇水の差が著しい。地形上河川勾配が急で大きな貯水池が得られないだけでなく、人口密度も高い国情から水没地点が多い。このため、貯水池点に恵まれず、大貯水池の造成に適したダムサイトは枯渇しており、発電だけでなく洪水調整や各種利水と共同して多目的ダムを計画する傾向にある。
④逆調整池式(re-regulating reservoir type)
調整池式発電所が1日の負荷辺変動に応じて使用水量を変化させると、調整池式・貯水池式の下流の流量が時間的に変動する。このため、調整池容量によって上流発電所のピーク放流を平滑化するために設ける逆調整池の落差を利用し、一定の出力で運転するもの。従って、このような発電所は需要の変動に対応した発電はできない。下図は只見川・阿賀野川河川縦断面図であり、河川における多段的利用が分かる。
『落差を得る方法による区分』
①水路式発電(conduit type)
発電所から見て上流に位置する河川・湖沼などより取水し、それを比較的長い水路によって発電所まで導き、その間の落差を得る方式。短い水路延長で大きな落差が得られる地点が有利であり、河川の勾配が急で、屈曲の多い上・中流部に設けられ、多くは流れ込み式である。
②ダム式発電(dam type)
河川内にダムを築造し、ダムによってせき上げられた落差を利用して発電するもの。発電所はダム付近に建設される。ダムの水位変化によって、落差変動が大きくなる。小容積のダムで高い落差と大きい貯水容量が得られる地点が有利であり、河川の勾配が緩やかで、流量豊富な河川の中・下琉部に設けられることが多い。また、河川流量の季節的な変化を年間を通じて平均化するため、河川の最上流部に大規模な貯水池を設けてダム式発電所とする場合もある。
③ダム水路式発電(dam and conduit type)
ダムによって水位を高め、さらにダム下流の河川の急流部または屈曲部の落差を、水路を延長することにより利用する方式。ダムと水路により落差をつくるもの。この場合、水路はダムの利用水位より低い標高を通過させるので圧力水路となり、圧力水路末端にはサージタンクを設置する。一般に河川の上・中流部に設けられることが多い。
【揚水式発電(pumped-storage power generation)】
一般水力に対し、揚水式発電は、上下二つの調整池を持つもので、軽負荷時に下部調整池から上部調整池へ水をくみ上げておき、重負荷時に発電するものである。総電力需要のうちピーク部分をまかなう。揚水発電には貯水池式水力発電にさらなる重負荷へ対応させるために揚水発電機を設置した混合揚水式と、上池を山の頂上近くなどに置いた自然流入量がほとんど無い純揚水発電がある。揚水発電に対して、流れ込み式・調整池式・貯水池式・逆調整池式は一般水力発電あるいは自流式水力発電という。揚水発電のエネルギー源は原子力発電所や大規模火力発電所の電力であり、一般水力発電の源は雨や雪を降らせる元になる海水を蒸発させた太陽エネルギーだという違いがある。つまり一般水力発電は再生可能エネルギーであるが、揚水発電は一種の二次電池(蓄電池)である。揚水時・発電時の往復に水路・ポンプ・水車・発電電動機、その他の経路でエネルギーロスがあり、その総合ロスは30%程度もあるが機動的で大容量のエネルギー貯蔵手段としては現在のところこれに勝るものはない。
【オンラインコラム32:水車について】
水車(water turbine)は水の持っているエネルギーを機械的エネルギーに変換する機械で、これによって発電機を回転し、機械的エネルギーをさらに電気的エネルギーに変える。これは水の持つ位置水頭h、速度水頭v2/2gおよび圧力水頭p/wの三種のエネルギーを利用し、これを機械的エネルギーに変換するものである。
水車を大別すると衝動水車(impulse turbine)と反動水車(reaction turbine)になる。衝動水車は圧力水頭(pressure head)を速度水頭(velocity head)に変えた流水をランナに作用させる構造のものであって、ノズルから水を噴出させてランナ周辺のバケットに作用させるぺルトン(Pelton wheel)水車とクロスフロー水車(Cross-flow turbine)がある。また、反動水車は、圧力水頭を保有する流水をランナに作用させる構造の水車で、フランシス水車(Ftancis Turbine)やプロペラ水車(propeller turbine)、斜流水車(diagonal flow turbine)などがこれに属する。また、水車はポンプにも用いられる。
衝動水車――ぺルトン
―クロスフロー
反動水車――フランシス ポンプ水車――フランシス
―斜流(デリア) ―斜流(デリア)
―プロペラ ――固定羽根 ―プロペラ
―可動羽根(カプラン)
①ぺルトン水車
ペルトン水車は衝動水車の一形式で、ノズル(nozzle)から流出する噴水をランナ周辺のバケット(おわん型の羽)に作用させる構造の水車で、主に高落差(200メートル以上)または中落差(150メートル程度)でも比較的流量の少ない場合に用いられる。
②クロスフロー水車
シロッコファンに似た形状のランナと1枚または2枚のガイドベーンからなる簡単なものであるが、水流がいったんランナの内側に入り中心部を横切り再びランナ外部にでる貫流式の構造を持つ。主に1000キロワット以下の小水力発電所で採用される。
③フランシス水車
フランシス水車は反動水車の一種で10メートル~300メートル程度と広範囲の落差に対して用いられる。ランナ・案内羽根・ケーシング・スピードリングおよびその他の付属装置からなっている。流水が半径方向から流入し、ランナ内で軸方向に向きを変える間に、流水の圧力と速度が減少し、その反動力としてランナにエネルギーを与える水車である。日本の水力発電所の約7割を占める。
③プロペラ水車
フランシス水車を低落差に使用すると、ランナ内の流水の相対速度が大きくなり、摩擦損失(friction loss)が増すが、縁輪を取り除き、羽根の数を少なくして、羽根の高さを低くすると効率の高い水車とすることができる。これがプロペラ水車で低落差用水車としてもっぱらこのプロペラ水車が用いられる。
④カプラン水車
カプラン水車は運転中に案内羽根の開度を調節するとともにランナ羽根の角度を変えて流量に応じた傾斜角をとることができるため、効率のよい運転が可能である。
⑤斜流(デリラ)水車
流水がランナを軸に斜めに通過する半動水車で、可動羽根形であり、構造そのものは、フランシス水車とカプラン水車を組み合わせたようなものである。ランナに水を導く部分やランナが水を放水路に導く部分は従来の水車と同様であるが、斜めに配列した羽根を動かす駆動機構がカプラン水車と異なる。このため、変落差・変負荷に対する水車特性、つまり部分負荷効率が良く、40~180メートル程度の落差の水力地点に採用されている。
【オンラインコラム33:ダムの種類】
①重力式コンクリートダム
ダム堤体の自重により水圧等の外力に抵抗して、貯水機能を果たすように造られたダム。一般的には直線形で、横断面は基本的には三角形で構成されている。
②フィルダム
堤体材料として岩石、砂利、砂、土質材料を使用するダム。土質材料を用いた「アースダム」と岩石材料を用いた「ロックフィルダム」に大別される。アースダムは堤高の低いダムの場合は「均一型」、高いダムには「ゾーン型」が用いられる傾向にある。ロックフィルダムは岩石材料で構成されるため、アースダムより堤高を高くできるが、大量の材料が必要なので、ダムサイトの近くでどのような材料が採取できるかによって形状が左右される。「ゾーン型ダム(中央コア型)」では中央にコアと呼ばれる遮水性の高い土質材料(粘土)を配置し、それを砂礫材の半透水ゾーンとロック材の透水ゾーンで支える構造をとる。「表面遮水型ダム」では、堤体の上流面にアスファルトまたは鉄筋コンクリートなどの遮水壁を設置し、下流面にロック材の透水ゾーンが配置された構造を持つものをいう。
③アーチ式コンクリートダム
主として構造物のアーチ作用により、水圧等の外力に抵抗して貯水機能を果たすように造られたダム。水平断面をとると円弧や放物線の形状を有している。アーチ式コンクリートダムは同じ高さの重力式コンクリートダムより使用するコンクリート量を大幅に減らせるが、ダムを支える両岸、底部の岩盤が強固でなければならず、設計には非常に高度な技術が必要で、施工にも人手がかかる。そのため、近年は人件費の相対的な上昇と強固な岩盤を持つ地点の減少―によりほとんど作られなくなっている。
④中空重力ダム
堤体中心部が中空になっている、重力式コンクリートダムの1 タイプ。第二次世界大戦後の資材不足の時代に建設されたものにみられる。コンクリートを打設する際にたくさんの型枠が必要で設置に人件費がかかる。近年は人件費の相対的な上昇によりほとんど作られなくなっている。
⑤コンバインダム
重力式コンクリートダムとフィルダムとの組み合わせで造られる複合型のダム。
⑥バットレスダム
水をせき止めるための鉄筋コンクリート製の遮水板と、その水圧を支えるための鉄筋コンクリートのバットレス と呼ばれる擁壁(支えるための壁)からなるダム
【オンラインコラム34:揚水式発電所の導入】
昭和27(1952)年に運転を開始した東北電力・沼沢沼発電所(4万4000キロワット)が本格的なものとしては我が国で初めてであるが、従来の揚水発電所は別置式のポンプを設置する形式と、タンデム式と呼ばれる発電機と電動機を兼ねる発電電動機に水車とポンプを一軸に結合した方式が取られていた。戦後1つの水車で水車とポンプの役割を果たす可逆型ポンプ水車が新しく開発され、四国電力の大森川発電所(1万2000キロワット)において我が国で初めて採用される。昭和34(1959)年のことであった。その後の揚水式発電所は可逆ポンプ水車が用いられ、規模も次第に大容量化され、昭和44(1969)年に旧東京電力が建設した安曇発電所(出力63万2000キロワット)がその先駆となった。以降、100万キロワット級の揚水発電所も珍しくなくなる。我が国における36万キロワット以上の水力発電所に中で、奥只見発電所と田子倉発電所以外はすべて揚水式発電が主である。
【オンラインコラム35:わが国の主要水力発電所(360,000キロワット以上)】
【オンラインコラム36:「包蔵水力」等から見た「中小水力」の可能性】
資源の乏しい我が国だが、山々に囲まれた地形と水に恵まれた自然環境は、水力発電に適している。この恵まれた水資源を有効に使うため、古くから水力発電に適した場所の全国的な調査『発電水力調査』が国を中心に明治43(1910)年の第一回以降、その時々の社会的ニーズに合わせ計5回行なわれ、将来開発可能な有望地点の把握に努められてきた。
最新の一般水力の出力別包蔵水力を地点数でみると下のグラフのように未開発地点は、ほとんどが1万キロワット未満である。
しかし、発電電力量でみると残念ながら、5000キロワット未満の中小水力からは多く期待できるとは言い難いのが実態である。
我が国における水力発電コストは新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の試算によると1万2000キロワットの一般水力でさえ10.6円毎キロワット時と諸外国の30万キロワット以上の大規模水力1.4~8円毎キロワット時はもちろん、100キロワット~30万キロワットの中小クラスの4~8円毎キロワット時に比べ劣後しているが、我が国の中小水力においては200キロワットの中小水力で19.1~22.0円毎キロワット時と著しく高く、普及拡大のボトルネックとなっている。
【オンラインコラム37:世界における「水力発電」】
【オンラインコラム38:世界最大の三峡発電所】
1993年に着工、2009年に完成。長江三峡のうち最も下流にある西陵峡の半ば(湖北省宜昌市夷陵区三斗坪鎮)に建設された。年間発生電力量は約1000億キロワット時であり、これは日本の総発電電力量の約一割に相当する。三峡ダムは大型重力式ダムで堤高は185メートル、堤頂長2309・47メートル、堤体積1600万立方メートル、総貯水容量393億立方メートル、有効貯水容量221億5000万立方メートルという巨大な規模を誇る。建設に際し、300万人以上が移住を強いられたという。
注:この項目は、日本ダム協会『ダム便覧2018』、鹿島建設株式会社『建設博物誌』ダム、Wikipediaその他を参考にしている。
【オンラインコラム39:イタイプダムとグリダム】
中国の三峡ダムに続く世界第二の水力発電所が南米ブラジルとパラグアイの国境に位置するパラナ川にあるイタイプダム(Itaipu Dam)である。1975年着工、1991年竣工。堤頂が長く、中空重力式コンクリートダム、バットレスダム、ロックフィルダム、アースダムという異なるタイプのダム群によって構成されている。ダムはブラジル、パラグアイ両国の共同管理下にあり、発電した電力は両国で均等に分けられる。しかし、人口の少ないパラグアイではこれほどの電力は必要なく、余剰電力はブラジルに「輸出」していて、パラグアイ国家財政にとってかなり大きな比重を占めているという。下流には世界三大瀑布の一つ、イグアスの滝があり、ダム湖と周囲の壮大な自然景観は両国のこの地域の国立公園を形成する重要な要素となっている。堤高196メートル、堤頂長9.9キロメートル、堤体積1000万立方メートル、貯水池容量290億立方メートル、発電容量1260万キロワット。
世界第三の水力発電所シモン・ボリーバル中央水力発電所があるのが、ベネゼエラのカロニ川水系に1986年に完成した複合式ダムのグリダム(Guri Dam)である。堤高162メートル。総貯水量1380億立方メートルを誇る。発電量は、ベネゼエラの国内電力需要の約70%に達している。ダム湖であるグリ湖は表面積40億5000万平方メートルと広大で、バス釣りのメッカとしても知られている。このグリⅡ発電所の水力発電機は最大容量85万5000キロボルトアンペア発電機10台が設置され、1984年に営業運転が開始された。空気冷却発電機が採用され現在でも世界最大容量機である。
注:この項目は、日本ダム協会『ダム便覧2018』、鹿島建設株式会社『建設博物誌』ダム、Wikipediaその他を参考にしている。
<参考>
一般財団法人 日本ダム協会 『ダム便覧2018』世界のダム
https://www.damnet.or.jp/Dambinran/binran/TopIndex.html
鹿島建設ホームページ『建設博物誌』ダム
https://www.kajima.co.jp/gallery/const_museum/dam/
東芝未来科学館 世界最大の空気冷却水力発電機・ベネズエラのグリⅡ発電所
https://www.toshiba-mirai-kagakukan.jp/learn/history/ichigoki/1984powerplant/index_j.htm
【オンラインコラム40:環境中央審議会・長期低炭素ビジョン『大幅削減の絵姿』】
将来の持続的社会的構築の方向性は中央環境審議会『大幅削減の絵姿』にあるように①省エネ②低炭素化③電化である。日本は欧米諸国と違い亜熱帯に近い気候にあり、住宅分野以外の熱需要の7割は冷房需要である。このため、我が国においては必ずしもコージェネレーションシステムは効率的とは言い難い。また、住宅部門で多くのエネルギーが使われているのは意外かもしれないが暖房・給湯で、冷房はヒートポンプが使われているため実は少ない。中央環境審議会でも①暖房・給湯でのヒートポンプと②電気自動車の活用をあげている。今後も電化はますます進展すると考えられる。水力など非化石電源への期待は大きい。
<巻末クレジット>—————————————————
『重厚長大・昭和のビッグプロジェクトシリーズ
佐久間ダム建設記録 第一部、第二部』
各DVD:2,500円+税
発売元:NBCユニバーサル・エンターテイメント
※2019年03月の情報です。