ここでは「はじめに」を公開していますので、どなたでも自由にご覧になれます。
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「エネルギー資源の何が問題ですか?」との質問をすると千差万別の答えが返ってくる。最大公約数的な返答として、エネルギー資源の枯渇を指摘する場合が多く見受けられる。そこで、「石油はあと何年で枯渇するのでしょうか?」との質問をすると、これがまた千差万別の答えが返ってくる。自分が生きている間は大丈夫とする立場で100年程度と答える場合、自分の孫までは大丈夫とする立場で200年程度と答える場合が多い。2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震に伴う福島第一原子力発電所事故の後において、エネルギー資源に関する国民的議論が大規模に展開されても良さそうであるが、そのような議論が実施される気配は残念ながら無い。我が国におけるエネルギー資源に対する感度は極めて低く、主観的な認識による不確実性に覆われているように感じる。
我が国には、エネルギー資源に関する技術や情緒は存在するが、科学は存在しないようである。エネルギーを取り巻く状況の認知や見通しに関する主観的な認識による不確実性が生じるのも、そのような背景からであろう。先進国における経済成長の鈍化、我が国における貧困化の顕在化をエネルギー資源と結びつけて考えている人はどれくらいいるだろうか。例えば、エネルギー資源の輸入国である我が国においては、2000年以降、交易条件が悪化し、「高く製品を売って、安くエネルギー資源を買う」状況から「安く製品売って、高くエネルギー資源を買う」状況へと移行した。少子化、中流階級の喪失、労働環境問題、実質賃金の低下、……多種多様な問題は互いに有機的に結合しており、その根底にはエネルギー資源の有り様が大きく横たわっている。
昨今、資本主義の限界が指摘されるようになった。先進国は新しいモノを創出できないために優位性が発揮できず、結果として安価にモノをつくることを強いられるが、アフリカ大陸が最終生産拠点となり、先行きの限界を感じるというわけである。その一方で、「欲しいものは無くなった」という言葉もよく耳にするが、現代の文明で提供できるモノやサービスの限界を意味するとも解釈できる。人類の歴史を紐解くと、このような限界に対する一種の「閉塞感」はエネルギー革命によって打開されてきた。例えば、現代の文明を支える石油資源の性能を遙かに凌駕するエネルギー資源が登場するならば、新しい学問分野や多様な産業が盛んに花開き、人々には再び欲しいモノ・サービスができ、資本主義は意気揚々と息を吹き返すことであろう。
「才能」と「努力」のどちらが重要かというのはよくある問いかけであるが、エネルギー資源を科学的に考える立場では問いかけ方が異なり、「才能・努力」と「生まれ持った環境」のどちらが重要な要因かとなる。この質問を日本の学生に尋ねると「才能・努力」が重要と答え、中東産油国の学生に尋ねると「生まれ持った環境」が重要と答える。ここで、前者は技術革新、後者はエネルギー資源をそれぞれ比喩しており、社会が発展成長するためにはどちらが重要かという問いになる。技術革新の重要性については論をまたないが、エネルギー資源の歴史を紐解くと、社会の有り様はエネルギーの有り様で決定されてきたことがわかる。
本書は、現代のエネルギー資源の問題がどのような経緯で生まれ、どのような点が問題の核心となっているのかといった疑問に答えるように、現代の地球規模でのエネルギー資源問題を視野に入れて、エネルギー資源に関連する技術発展史を、その背景となった社会・経済や貢献度の高かった人物のエピソードにも触れて解説している。
人類とエネルギー資源の関係の歴史的ダイナミズムを文明論的視点で捉えることで、広くエネルギー資源に関する科学が醸成され、結果としてエネルギー資源に関する科学的かつ国民的な議論のきっかけになれば幸いである。これからの時代、エネルギー資源に対する感度が高い国・組織・人が生き残っていくだろう。
最後になるが、本書の出版に際して一色出版の岩井峰人氏に大変お世話になった。執筆者を代表して心より感謝申し上げる。
編著者 松島 潤