はじめに
ヨーロッパ南西部のイベリア半島に位置するスペインは、4600万人強が暮らす立憲君主制国家(面積は日本の約1・3倍)である。それぞれ広汎な自治権をもつ17の自治州とアフリカ大陸北部にあるふたつの自治都市からなる(図1)。
そのスペインのイメージを聞かれて、まず最初に、闘牛やフラメンコ、そして青い海に白い家といった光景を思い起こす人は多いかもしれない。スポーツファンなら、FCバルセローナやレアル・マドリードのようなサッカーを、また近年の政治動向が気になる人なら、独立の気運が高まるカタルーニャの動きを挙げる人もいるだろう。あるいは、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の3つが共存してきた歴史を思い浮かべる人もいるかもしれない。それらはいずれも「スペイン」の姿である。
現在のスペインはひとつの国とされている。とはいえ、中世には各地に固有の国家が存在し、日の沈む所のないといわれた近世の「スペイン帝国」でさえも、制度的にはそれらの国家をひとりの君主が束ねているに過ぎなかった。加えて、多様な地理的環境と、そこに到来した諸民族の交差と融合の結果として、様々な言語や社会・文化的背景が混ざり合ってきた。したがって、20世紀に勃発した凄まじい内戦の末に生まれたフランコの独裁政権(図2)は、確かに「ひとつのスペイン」を標榜した。しかし、民主化の過程で設けられた1978年の現行憲法ではスペイン語(カスティーリャ語)を唯一の国家語として規定したにもかかわらず、国を構成する自治州が地域公用語を持つことも認めている。さらにスペインは、国の内外へ移民する流出入人口の割合が高く、同じ地域の中でも異なる要素が複合的に絡み合ってもいる。「モザイク社会」や「多元的社会」と称される理由である。
読者の中には、サッカーをはじめとするスポーツの国際試合でスペイン国歌を耳にし、メロディーだけで歌詞がないことに驚いた人もいるだろう。これまでスペインでは幾度となくナショナルな歌づくりに向けた試みがあったものの、階級や政治信条といった社会的な理由や複雑な宗教的背景などにより、継続したものとはなり得なかった。例えば、日本の天皇杯にあたる国王杯のサッカー決勝で、自らの権利を主張する地域ナショナリズムが根強いカタルーニャのFCバルセローナとバスクのアスレティック・ビルバオが対戦した時には、スピーカーから流れる国歌自体の音源を切ってしまったり、ブーイングが鳴りやまなかったりしたこともあった。スペインオリンピック委員会は2007年に国歌の歌詞を公募して選考したが、結局のところ、多くの批判を浴びたことから、コンセンサスを得られなかったとして歌詞をつけるプロジェクトを断念している。
こうして、スペインでは、もともと多様であったいくつもの地域をひとつに束ねたり、国の象徴となる歌をあるひとつの言語で歌ったりすること自体、そう簡単なことではないのである。だからこそ、フランコによる独裁政権下では、人びとの身体を管理する役目がスポーツに託されたのであった。
様々な軋轢や抵抗を生みながら、複雑で多様な要素を内包してきたスペイン。まずはそのスペインにおけるスポーツ伝播の過程から見ていこう。
1.近代スポーツの伝播と受容
スポーツの到来
近代スポーツがスペインで発展していったのは1880年代から90年代であり、この時期に様々なスポーツ組織が設立されていった。競技別に見ると、自転車の団体数が圧倒的に多い。2番目に多いのが体操とセーリングやボートといった水上競技だが、自転車の5分の1程度の団体数にとどまる。サッカーは自転車の10分の1にも満たない。今でこそ、スペインにおけるサッカー人気は群を抜いているが、サッカーが「スポーツの王」と言われるようになるのは1940年代以降であり、それ以前には身体を使ったゲームやボールゲーム、ぺロタ、体操、狐狩り、見るスポーツとしては競馬など、様々なスポーツが人気を得ていたのである。
19世紀末のスペインではエミリア・パルド・バサーンがイギリスのスポーツ(sport)に対して、スペイン語でスポーツを意味するデポルテ(deporte)を使用していた。それを最初に用いたのはマドリードの『芸術啓蒙運動』とバルセローナの『ロス・デポルテス』(図3)と呼ばれる専門雑誌であった。また当初、近代スポーツが導入されてきた時には、それまでの土着のスポーツと区別するために、近代スポーツを行なう人のことを英語の影響からスポーツマン(sportmen)と呼んでいたという記録も残っている。
スポーツの初期の普及については、近代スポーツの母国であるイギリスや隣国フランス、ドイツ、スイスからの影響が大きい。その担い手は、外国資本や技術の輸入に関わった外国人やスペイン人留学生、産業革命で力をつけたブルジョワジーや自由主義を目指す知識層などであった。そして、民間のスポーツクラブやジムが、そうしたスポーツマンにとっての集いの場にもなった。その頃ちょうど、ブルボン朝の復古(1875年)にともない、王室や貴族を中心としたスポーツ愛好家がスポーツをはじめとするイギリスの文化モデルに熱狂し始めた時期であったということも重要であった。スポーツは健康的かつ衛生的な行為として、それを行なうものに気晴らしと喜びを与えるものとしても理解されていった。スポーツはまたヨーロッパの進んだ文化であり、それを取り込むことでスペインも文明化するといった捉え方もなされていた。
かつて「無敵艦隊」の名を誇ったスペインは1898年の米西戦争で敗れて植民地を失うと、過去の栄光を奪回するためにスペインの近代化とヨーロッパ化を目指すべきであるという声が知識人のあいだで高まっていった。「再生主義」と呼ばれる思想潮流である。身体を鍛えることで強い民族が作れるという考えが広がり、それによってスポーツが称揚されていったのである。
一方、統一国家を目指すスペインに取り込まれることを潔しとしない周縁地域は、自らの社会や独自の文化を維持する権利を主張し、政治的文化的な独自性を守るための闘いが展開されていった。そうした地域ナショナリズム運動の中でもっとも早く台頭したのが「カタルーニャ主義」であった。スポーツは、大国の再生を目指す「スペイン」を強化するものとして利用される一方で、カタルーニャなどでは地域ナショナリズムを代弁する機能も重ね合わせられ、複合的な役目を担っていく。
こうしてスペインでは、19世紀後半以降にスポーツが大きな意味を持つようになるのであるが、その伝播には、有志クラブや協会を結成し自発的にスポーツを実施していくという流れと、学校教育に導入されるというふたつの流れがあった。
スポーツ組織の結成
まず、前者の流れを汲むものとして挙げられるのが「ボッチャ」の組織である。スペインでは1830年代以後になると民衆の間にも、相互扶助、音楽、文化、娯楽などの結合組織[アソシアシオン]が誕生していったが、「ボッチャ」の組織はそれより早い1822年に設立された。スペイン南部に位置するアンダルシーアのカディスでは同年、立て続けに5つの団体が誕生している。現在の日本では、障がい者スポーツのひとつとして知られる「ボッチャ」もペタンクやローンボウリングにその始まりを持つとされ、近代スポーツが入ってくる前から行なわれていた。
また歴史的にヨーロッパの前衛的な文化から影響を受けてきたバルセローナでは、1840年に初めてダンスやフェンシング、馬術を行なう団体が結成された。スペインの中でもスポーツの組織化を牽引したのがバルセローナだったのだ。19世紀における地域ごとの組織数を見ると、バルセローナを有するカタルーニャが一番多く、アンダルシーア、マドリードを中心とするイベリア半島中央部と続く(表1)。バルセローナでは18世紀末から19世紀前半にかけた産業革命(工業化)の過程で人口が増加し、都市計画の推進や移民の流入などもあり工業都市として飛躍的な成長を遂げた。そうした産業構造の変化にともない富を得た中流階級が、余暇時間を満たすためにスポーツへの関心を高めていったのである。
20世紀に入る頃になると、競技ごとの全国組織ができ始める。体操(1895年)をはじめ、自転車(1896年)、射撃(1900年)、テニス、サッカー(1909年)、陸上競技(1918年)、水泳(1920年)、バスケットボール(1923年)などがそれである。一方、自動車は1904年に早くも国際組織が誕生している。
1888年にバルセローナで開催されたスペイン初の万国博覧会で、サッカーなどのスポーツが行なわれたことも普及に一役買った。特に、注目を集めたのは自転車レースであり、メーカーの出展もあいまって、その後、急速に自転車の組織数を増やすことになる。
カタルーニャでは祭りの中にスポーツのイベントが組みこまれることも珍しくなかった。例えば、バルセローナの守護聖人であるマルセーの祭りにおいては、1871年に馬のレースやレガッタ、水泳大会が一緒に開催された。また、バルセローナから南に電車で1時間強のタラゴーナでは、1933年の大祭で、カタルーニャの民族舞踊として知られるサルダーナの競技会やサイクリングレース、闘牛や花火に音楽のコンサート、サッカーの試合に民衆芸能の人間の塔(図4)による競技会など多様な催しがなされている。日本では「お祭りの中でスポーツ大会?」といぶかしく思う人がいるかもしれないが、スペインでは「祭り」や「スポーツ」という言葉が表す意味合いがとても広く、両者がしばしば混在する。そしてそれは、市民参加を基盤とする文化としても位置付けられた。
学校教育の中の身体活動とスポーツ
「啓蒙の世紀」、「光の世紀」とされる18世紀は、人間本来の理性を働かせようという思想的潮流の中で、その基盤となる身体の健全性が重要視された。その流れで体育の制度化に努めたのが、スペインの政治家として知られるガスパル・メルチョル・デ・ホベリャーノス(1744~1811年)であった。また「スペインの体育の父」と呼ばれ近代体育の創始者のひとりとして知られるフランシスコ・アモロース・イ・オンデアノ(1770~1848年)も、「民衆教育の父」として名高いスイス人のヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチの影響を受け、マドリードに1806年、王立ペスタロッチ軍隊研究所(Real Instituto Militar Pestalozziano)を開設する。このアモロースの作ったプログラムはフランスの体育でも用いられ、ヨーロッパのモデルになっていく。しかし、アモロースはナポレオンとの戦争後、亡命しなければならず、スペインにおいては長きにわたりアモロースの後継者が出てくることはなかった。
スペインでは、1857年の「公教育基本法」、つまり当時の大臣の名前にちなんだモヤーノ法により6歳から9歳の児童の義務教育が施行されることになったが、宗教、道徳、読み書きが重視されており、体育の導入にはいたらなかった。公教育においては、1879年に中学・高校段階で体育を必修化しようとする動きが初めて起き、1883年には法規によって体育の実施が定められた。しかし、1886年までそれが公表されることはなく、学校体育の状況が正常化するのは当分、難しかった。
他方、教育の場における思想信条の自由を求めて設立された「自由教育学院」(1876年~)では体育が重視された。国家から独立した私立の教育機関であり、当時の暗記中心の教育に代わる、教師と生徒の対話による相互教育や課外活動を多く取り入れた体験型教育、自然とのふれあいや男女共学などを特徴としていた。
1887年には体育教員養成学校が開校し、当時にしては珍しい女性教員の育成も行なわれた。しかし、女性16名、男性71名の教員を養成したあと、予算の不足により1892年にその役目を終えた。そこで1919年に新たに設立されたのが、トレードに建設された陸軍体育学校である。この学校の卒業生が資格を有する体育教員となり、広く体育の指導にあたっていった。
当事の国王アルフォンソ13世は大のスポーツ好きとして知られているが、その国王から首相に指名されたプリモ・デ・リベーラが軍事独裁政権を樹立(1923~1930年)し、「身体文化(cultura física)」という用語が生み出されていく。
2.スポーツの大衆化とメディア、女性の参画
スポーツマスメディア
スペインにおけるスポーツの発展は、新聞や雑誌、ラジオ、テレビなどのマスメディアの影響を抜きに語れない。その際に、それが誰によって、いつ作られ、どこで、どのくらいの影響力(発行部数等)があり、どのような主義・主張を持っているかについて意識して把握することが重要である。なぜなら、どの新聞を読むか、どこのチャンネルに合わせてテレビを見るかによって、言語も異なり入ってくる情報も大きく変わってくるからだ。ここでもスペインの多様性を見て取れる。この傾向は現代のスペインにおいても変わらず、この点は日本のマスメディアとはかなり異なっている。
スペインへの近代スポーツの導入を推進したナルシース・マスフェレー・イ・サラは、1897年、バルセローナにおいて、先に取り上げた雑誌『ロス・デポルテス(Los Deportes)』の発行を始め、スポーツの普及に尽力した。続く1906年には、新聞『エル・ムンド・デポルティーボ(El Mundo Deportivo)』を立ち上げるが、1929年までは日刊ではなかったため、スペインの北部ビルバオで編集された『エクセルシオール(Excelsior)』(1924~1932年)がスペイン初のスポーツ日刊紙ということになる。スポーツ以外にも報道や文化を扱っていた。1912年にはマスフェレーらによってスポーツジャーナリスト組合も設立された。
また、スペイン北部のサン・セバスティアンで内戦中の1938年に立ちあがった『マルカ(Marca)』は、1940年に編集をマドリードに移したが、常にマドリードのチーム、特にレアル・マドリードの報道に情熱を注ぎ、他の地方のサッカーチームには見向きもしないことで知られている。1942年11月からは日刊紙となり、フランコ独裁体制を支えた「国民運動」の機関紙のひとつとなる。一方、この『マルカ』を1960年代に一時、追い越したのが同じマドリードを本拠地とする『アス(AS)』である。1990年代に全ページ、カラーで発行した最初の新聞でもある。これらに、1979年にバルセローナで発行された『スポルト(Sport)』を加えた4つのスペイン語による新聞がスペインにおける4大スポーツ紙である。
スペインで初めてテレビの公式放送が始まったのは1956年である。ラジオはそれより30年以上前の1924年に「ラジオ・バルセローナ」が定期放送を始めた。その前年に「ラジオ・イベリカ・デ・マドリード」が試験放送をしていたものの不定期であった。
筆者の知人の話によると、スペインではテレビよりラジオの方に良いアナウンサーが多いと言う。実際、サッカーの歴史の中で有名な実況アナウンサーを挙げてみると、故マティアス・プラッツ・カニェーテ、ホセ・マリーア・ガルシーア・ペレス、ジュアキム・マリア・プジャル・イ・オルティガといったラジオで活躍するアナウンサーの名がよく挙がる。とくにプジャルは民主化後の1976年に、独裁政権下において公式の使用が禁じられていたカタルーニャ語で初めてサッカーの実況をしたアナウンサーであり、文献学者でもあった彼の放送で幅広いカタルーニャ語を覚えた人もいたという。有名なラジオ局がある都市部では、サッカー場で試合を見ながらラジオを聞いている人をよく見かける。
スポーツの大衆化と女性の参画
政治史的に見ると、スペインでスポーツが大衆化されていったのはプリモ・デ・リベーラ将軍による独裁から第2共和政が成立する1920年代にあたる。1900年からスペイン内戦の始まる1936年に、ナショナルスポーツの枠組みが強化されたと言われているが、のちに触れる女性の社会進出の拡大期とも重なる。陸上、バスケットボール、ラグビー、競馬が中産階級に愛好された一方で、自転車、ボクシング、とりわけサッカーが大衆の人気を博した。見るスポーツも普及していったのである。
サッカーの最初の記録は、ラモン・リョピス・ゴッチによると1872年とされる。現存する1部リーグのチームを見てみると、スペイン北部のビルバオでイギリス人労働者とスペイン人留学生によって作られたアスレティック・クルブが1898年に(1901年もしくは1903年という説もあり)、ヨーロッパでも珍しい複数の種目を持つFCバルセローナ(図5)が1899年に、バルセローナ大学工学部の学生たちが作ったエスパニョールが1900年に、「フット・ボール・スカイ」(1897年に設立)などのサッカーチームを前身とするレアル・マドリードが1902年にそれぞれ創立されている。
1920年に参加したアントワープ五輪のサッカーで、スペイン代表が銀メダルを獲得したことで、現在でも知られる「激情[フリア]」という言葉がスペインサッカーを形容するものとなった。1922年にFCバルセローナに3万人収容のスタジアムが、その2年後にはマドリードに1万5000人のスタジアムが設立され、多くのファンを虜にした。
スペインサッカー連盟は、1926年に選手のプロ契約を認めた。1928年の秋になって、プロ化した選手に賃金を支払うため試合数を確保する必要性が生じ、全国の有力クラブによるリーグ戦が始まった。ただ、他のヨーロッパの国々と比べると、スペインではインフラや投資の不足があり、この時期のスポーツの浸透には限度があったとされる。
一方、女性がスポーツをする機会は社会・文化的後押しを受けて徐々に広がっていった。1921年にパリで国際女子スポーツ連盟が生まれたが、スペインの女性たちもこの団体との繋がりを持ち続けていた。1928年には女性だけで構成される女子スポーツクラブ「Club Femení i d’Esports」(図6)がバルセローナで創設され、その後、他の地域で誕生していく女性スポーツクラブのモデルとなっていった。中には、男性のクラブが女性の大会や競技を始めたところもあった。1930年代のスポーツは多くの女性にとって解放の手段であり独立や文化的闘争のシンボルであった。しかし、ここでもその範囲は限定的で、基本的に都市の現象にとどまった。カタルーニャやバスクの女性スポーツクラブは、その後、影響力を持ってくる独裁政権主導の組織とは距離を取っていたといわれる。
そのような中、独自のオリンピック誘致運動を続けていたのがカタルーニャだった。FCバルセローナの創始者であるジュアン・ガンペル会長らを使節団として誘致活動を続けたが、1924年はパリ、1928年はアムステルダムに決まった。バルセローナは1936年大会にも名乗りを上げるが、スペインの政情不安を理由に、選ばれたのはベルリンだった。そのベルリン五輪がナチス体制による開催になることを知ると、対抗して、バルセローナでは「人民オリンピック」の開催が計画された。しかし開会式の前に、次節で触れる反乱軍の蜂起が起こり、断念せざるを得なかったのである。こうして「人民オリンピック」に参加するためバルセローナに滞在していた外国人の一部も国際旅団の一員として、ファシズム打倒や革命の理想に燃える若者たちとともに、マドリードをはじめ各地の戦線に散っていった。
3.内戦、そしてフランコ独裁下におけるスポーツ
このように、スペイン現代史および1930年代のヨーロッパというふたつの文脈で大事件だったのがスペイン内戦(1936~1939年)である。1936年7月17日夕方、スペイン領モロッコにおいて、第2共和政に反旗を翻した軍人たちが反乱を起こしたことから始まる。この内戦は「ファシズムと民主主義の戦い」や「ヨーロッパ中で高まっていた左右対立の最も暴力的な形」として位置づけられる。スペインにいるかぎり誰もこの戦争から逃れることはできず、一方が優勢になり支配を固めると、敵となった人びとを弾圧し処刑した。内戦初期にはほとんどのところで、このような戦いが生まれ、知り合いや友人が敵になったり、同一家族が闘い合ったりしたことも少なくなかった。骨肉の争いと言われる理由である。国民は戦闘以外にも飢えや恐怖にさいなまれたり、強制労働を強いられたりして、スペイン全体では内戦下で約45万人、内戦後に約20万人が犠牲になったとされる。加えて40万人を超える人が亡命し、ヨーロッパ、ラテン・アメリカ、ソ連などに移り住んだという。
ただ、そのような激しい内戦下においてもスポーツを実践しようとする動きはあった。例えば、スペイン北西部に位置するガリシアではフランコ体制が唯一認めたファランヘ党が、戦時中でもできる限り地元のサッカーなどを通常通り行なうことを目指していたという。しかし、実際のところは内戦前とは比較にならず、スポーツを組織的に行なう者が監視されていたため、過去の追及などを恐れてスポーツを先導する者が出てこなかった。他方、海軍が駐留していたフランコの地元のフェロルには、クラブ・フェロル(現ラシン・デ・フェロル)というサッカークラブが権力の象徴となり、優秀な選手を集めていた。一方、共和国陣営となったカタルーニャでは、スポーツは社会的な役割を担い、フランコ軍と敵対するためのスポーツ大会や戦争被害者のためのスポーツ祭、献血を募るスポーツイベントなどを開催した。それらは、反乱軍に対する抵抗であるとともに、慈善活動として行なわれたスポーツ大会を公式試合とすることで、スポーツ組織の延命を試みるものであった。
スペイン内戦中の1938年には高等学校で体育が必修になるなど、学校教育の中でも体の強さを求めた身体活動が実践されて軍事を強化していく流れにあった。
内戦の結果、フランコ率いる反乱軍が勝利すると、独裁体制に反する理念や言動は厳しい処罰の対象になっていった。以降、1975年まで、スペインはフランコ独裁の支配下に置かれることになる。
まず1940年にはアカデミア・ナショナルが設立され、独裁政権が体育を管理する枠組みが作られた。学校では男女共学が廃止され、男子には厳しい軍事訓練のような体育が課された一方、女子にはスウェーデン体操や民族舞踊のみが教えられるようになった(図7)。
一方、1941年2月にはスポーツの全国連盟や地方連盟の会長・副会長を指名する権限と、連盟のあらゆる決定を取り消す拒否権を持った国民スポーツ局により、地域スポーツの支配が始まった。フランコ政権は国民に厳しいジェンダー規範を課し、そのため女性のスポーツは、バスケットボール、バレーボール、体操などに限られ、陸上競技は許されなくなった。こうして体育・スポーツは独裁政権により全面的に掌握され、利用されていった。
スペインのスポーツ史研究は、1940~1950年代が見るスポーツの最盛期であり、この時期、サッカーが「スポーツの王」として君臨したことを教えてくれる。フランコ政権はサッカーの宣伝力を利用するため、代表のユニフォームを伝統の赤からファランヘ党員のシャツの色である青に変えたり、選手に右手を斜めに高く挙げて敬礼をさせたり、ファランヘ党の党歌である「太陽に顔向けて(Cara al sol)」を歌わせたりした。また、サッカーは国際関係を結ぶ役目も担った。スペインはドイツ、イタリア、フランス、ポルトガル、スイスと親善試合を行なうとともに、こうした機会をとらえてファシズムを標榜する演説を行ない、反共産主義の姿勢を打ち出していった。
スペインは第2次世界大戦で中立を保ったが、ドイツが破れたのを機にファシズム色の払拭を図っていく。1945年にはファシスト式の敬礼を公式なものとすることをやめ、1947年には代表の青いシャツを赤に戻した。ただし、フランコ政権によるサッカーの政治利用はその後も続いた。レアル・マドリードがフランコのお気に入りのクラブであることが公然たる事実となると、クラブ同士のライバル関係にも徐々に政治的な意味が付与されていった。
共和国と地域主義のシンボルとされたFCバルセローナは、フランコによって弾圧されるカタルーニャの人びとの拠り所となっていった。ホームスタジアムの座席に大きく記されている「バルサは単なるクラブ以上の存在(El Barça és més que un club)」という有名な表現も、そうした由来を持つ。これは、1968年1月17日付『ラ・バングアルディア・エスパニョーラ』紙に掲載されたある人物の発言からとったものだった。その人物とは同日にバルサの会長に就任した保守派カタルーニャ主義の伝統を代表するナルシース・ダ・カレーラス・イ・ギテーラスであり、その言葉はFCバルセローナが訴え続けているフットボールの民主化ともまさに一体のものであった。
4.民主化と国際大会の開催
フランコによる独裁体制は、フランコの死去(1975年)とともに崩壊に向かった。1977年には、軍事独裁により仕切られていたアカデミア・ナショナルが国立体育研究所(INEF)に吸収され、1980年には新たなスポーツと身体文化に関する法律が制定された。そして小学校にあがる前の幼児教育(3~5歳、義務化されていない)から体育が必修になった。また、大学でも身体活動の授業が設けられ、1999年からは体育の管轄がそれぞれの自治州に移った。全体主義国家による身体の管理と利用は2000年を前に、ひとまず地域に委ねられ、現在にいたっている。
スペインのスポーツ界において、民主化ならびに国際化を大きく印象付けたのが、1982年にスペインの14都市17スタジアムを会場として開催されたサッカーのワールドカップと、1992年にバルセローナで開催された夏季オリンピック・パラリンピックであろう。とくに、バルセローナオリンピック・パラリンピックは、1991年にソ連が崩壊し、冷戦が終結した後に、初めて開かれた大会として人びとの記憶に刻まれた。点字が施されたメダルが初めて授与されたのは、このバルセローナパラリンピックであった。
このパラリンピックを大きく支えたのが「オンセ(ONCE:Organización Nacional de Ciegos Españoles)」の名で知られる国立スペイン盲人協会(スペイン視覚障害者協会)である。オンセは40億ペセタ以上(1ユーロ133円で計算すると約32億円以上)の財政援助や広報分野での支援、短期間ではあったが選手が大会前に準備するための奨学金助成などで大会を後押しした。オンセは、スペインの街を歩いているとよく見かける小型のボックスで宝くじの販売なども手掛けているが、もともとはスぺイン内戦で兵士の多くが失明したことから、1938年に視覚障がい者の自立と社会参加を目指して設立された。障がい者の雇用や教育、点字図書館などをバックアップするだけでなく、現在でもスポーツの支援を行なっている。
スペインのスポーツを語る上で、政治とアイデンティティとの関わりは欠かせない。その一方で、スペインを訪れるたびに筆者が感じることがある。それは、私たちひとりひとりの違いを認め、それぞれが勝者であることを再認識させてくれるという得難い感覚だ。
「私たちはみな異なっている。私たちは私たちなりのやり方でみな特別だ。私たちのそれぞれは炎の中に輝きと創造力を持っている……」。 (車いすのイギリス物理学者 故ホーキング博士)
20年以上にわたって国際オリンピック委員会の会長を務めたカタルーニャ出身のスペイン人、ジュアン・アントニ・サマランクの名が付されたオリンピック・スポーツミュージアムの床には、こう記されている。それは、多くの移民が出入りし、自らも歴史の中で血と汗を流し続けてきた「モザイク社会スペイン」らしい言葉でもある。