第4章 スペイン ︱「モザイク社会」の中のスポーツ

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はじめに

 ヨーロッパ南西部のイベリア半島に位置するスペインは、4600万人強が暮らす立憲君主制国家(面積は日本の約1・3倍)である。それぞれ広汎な自治権をもつ17の自治州とアフリカ大陸北部にあるふたつの自治都市からなる(図1)。

 そのスペインのイメージを聞かれて、まず最初に、闘牛やフラメンコ、そして青い海に白い家といった光景を思い起こす人は多いかもしれない。スポーツファンなら、FCバルセローナやレアル・マドリードのようなサッカーを、また近年の政治動向が気になる人なら、独立の気運が高まるカタルーニャの動きを挙げる人もいるだろう。あるいは、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の3つが共存してきた歴史を思い浮かべる人もいるかもしれない。それらはいずれも「スペイン」の姿である。

図1.スペインの自治州・自治都市と自治憲章の承認年月 筆者作成

図1.スペインの自治州・自治都市と自治憲章の承認年月 筆者作成

 現在のスペインはひとつの国とされている。とはいえ、中世には各地に固有の国家が存在し、日の沈む所のないといわれた近世の「スペイン帝国」でさえも、制度的にはそれらの国家をひとりの君主が束ねているに過ぎなかった。加えて、多様な地理的環境と、そこに到来した諸民族の交差と融合の結果として、様々な言語や社会・文化的背景が混ざり合ってきた。したがって、20世紀に勃発した凄まじい内戦の末に生まれたフランコの独裁政権(図2)は、確かに「ひとつのスペイン」を標榜した。しかし、民主化の過程で設けられた1978年の現行憲法ではスペイン語(カスティーリャ語)を唯一の国家語として規定したにもかかわらず、国を構成する自治州が地域公用語を持つことも認めている。さらにスペインは、国の内外へ移民する流出入人口の割合が高く、同じ地域の中でも異なる要素が複合的に絡み合ってもいる。「モザイク社会」や「多元的社会」と称される理由である。

図2.サラマンカ市庁舎のバルコニーから群衆に向かって挨拶するフランコ(1937年) Payne, Stanley G., The Franco Regime 1936-1975, Phoenix Press, London, 2000, p.172

図2.サラマンカ市庁舎のバルコニーから群衆に向かって挨拶するフランコ(1937年)
Payne, Stanley G., The Franco Regime 1936-1975, Phoenix Press, London, 2000, p.172

 読者の中には、サッカーをはじめとするスポーツの国際試合でスペイン国歌を耳にし、メロディーだけで歌詞がないことに驚いた人もいるだろう。これまでスペインでは幾度となくナショナルな歌づくりに向けた試みがあったものの、階級や政治信条といった社会的な理由や複雑な宗教的背景などにより、継続したものとはなり得なかった。例えば、日本の天皇杯にあたる国王杯のサッカー決勝で、自らの権利を主張する地域ナショナリズムが根強いカタルーニャのFCバルセローナとバスクのアスレティック・ビルバオが対戦した時には、スピーカーから流れる国歌自体の音源を切ってしまったり、ブーイングが鳴りやまなかったりしたこともあった。スペインオリンピック委員会は2007年に国歌の歌詞を公募して選考したが、結局のところ、多くの批判を浴びたことから、コンセンサスを得られなかったとして歌詞をつけるプロジェクトを断念している。

 こうして、スペインでは、もともと多様であったいくつもの地域をひとつに束ねたり、国の象徴となる歌をあるひとつの言語で歌ったりすること自体、そう簡単なことではないのである。だからこそ、フランコによる独裁政権下では、人びとの身体を管理する役目がスポーツに託されたのであった。

 様々な軋轢や抵抗を生みながら、複雑で多様な要素を内包してきたスペイン。まずはそのスペインにおけるスポーツ伝播の過程から見ていこう。

1.近代スポーツの伝播と受容

スポーツの到来

 近代スポーツがスペインで発展していったのは1880年代から90年代であり、この時期に様々なスポーツ組織が設立されていった。競技別に見ると、自転車の団体数が圧倒的に多い。2番目に多いのが体操とセーリングやボートといった水上競技だが、自転車の5分の1程度の団体数にとどまる。サッカーは自転車の10分の1にも満たない。今でこそ、スペインにおけるサッカー人気は群を抜いているが、サッカーが「スポーツの王」と言われるようになるのは1940年代以降であり、それ以前には身体を使ったゲームやボールゲーム、ぺロタ、体操、狐狩り、見るスポーツとしては競馬など、様々なスポーツが人気を得ていたのである。

 19世紀末のスペインではエミリア・パルド・バサーンがイギリスのスポーツ(sport)に対して、スペイン語でスポーツを意味するデポルテ(deporte)を使用していた。それを最初に用いたのはマドリードの『芸術啓蒙運動』とバルセローナの『ロス・デポルテス』(図3)と呼ばれる専門雑誌であった。また当初、近代スポーツが導入されてきた時には、それまでの土着のスポーツと区別するために、近代スポーツを行なう人のことを英語の影響からスポーツマン(sportmen)と呼んでいたという記録も残っている。

図3.雑誌『ロス・デポルテス』の編集会議(1898年、バルセローナ) Vázquez Montalbán, Manuel, 100 años de deporte : del esfuerzo individual al espectáculo de masas, Difusora Internacional, S.A., Barcelona, 1973, p.23

図3.雑誌『ロス・デポルテス』の編集会議(1898年、バルセローナ)
Vázquez Montalbán, Manuel, 100 años de deporte : del esfuerzo individual al espectáculo de masas, Difusora Internacional, S.A., Barcelona, 1973, p.23

 スポーツの初期の普及については、近代スポーツの母国であるイギリスや隣国フランス、ドイツ、スイスからの影響が大きい。その担い手は、外国資本や技術の輸入に関わった外国人やスペイン人留学生、産業革命で力をつけたブルジョワジーや自由主義を目指す知識層などであった。そして、民間のスポーツクラブやジムが、そうしたスポーツマンにとっての集いの場にもなった。その頃ちょうど、ブルボン朝の復古(1875年)にともない、王室や貴族を中心としたスポーツ愛好家がスポーツをはじめとするイギリスの文化モデルに熱狂し始めた時期であったということも重要であった。スポーツは健康的かつ衛生的な行為として、それを行なうものに気晴らしと喜びを与えるものとしても理解されていった。スポーツはまたヨーロッパの進んだ文化であり、それを取り込むことでスペインも文明化するといった捉え方もなされていた。

 かつて「無敵艦隊」の名を誇ったスペインは1898年の米西戦争で敗れて植民地を失うと、過去の栄光を奪回するためにスペインの近代化とヨーロッパ化を目指すべきであるという声が知識人のあいだで高まっていった。「再生主義」と呼ばれる思想潮流である。身体を鍛えることで強い民族が作れるという考えが広がり、それによってスポーツが称揚されていったのである。

 一方、統一国家を目指すスペインに取り込まれることを潔しとしない周縁地域は、自らの社会や独自の文化を維持する権利を主張し、政治的文化的な独自性を守るための闘いが展開されていった。そうした地域ナショナリズム運動の中でもっとも早く台頭したのが「カタルーニャ主義」であった。スポーツは、大国の再生を目指す「スペイン」を強化するものとして利用される一方で、カタルーニャなどでは地域ナショナリズムを代弁する機能も重ね合わせられ、複合的な役目を担っていく。

 こうしてスペインでは、19世紀後半以降にスポーツが大きな意味を持つようになるのであるが、その伝播には、有志クラブや協会を結成し自発的にスポーツを実施していくという流れと、学校教育に導入されるというふたつの流れがあった。

スポーツ組織の結成

 まず、前者の流れを汲むものとして挙げられるのが「ボッチャ」の組織である。スペインでは1830年代以後になると民衆の間にも、相互扶助、音楽、文化、娯楽などの結合組織[アソシアシオン]が誕生していったが、「ボッチャ」の組織はそれより早い1822年に設立された。スペイン南部に位置するアンダルシーアのカディスでは同年、立て続けに5つの団体が誕生している。現在の日本では、障がい者スポーツのひとつとして知られる「ボッチャ」もペタンクやローンボウリングにその始まりを持つとされ、近代スポーツが入ってくる前から行なわれていた。

 また歴史的にヨーロッパの前衛的な文化から影響を受けてきたバルセローナでは、1840年に初めてダンスやフェンシング、馬術を行なう団体が結成された。スペインの中でもスポーツの組織化を牽引したのがバルセローナだったのだ。19世紀における地域ごとの組織数を見ると、バルセローナを有するカタルーニャが一番多く、アンダルシーア、マドリードを中心とするイベリア半島中央部と続く(表1)。バルセローナでは18世紀末から19世紀前半にかけた産業革命(工業化)の過程で人口が増加し、都市計画の推進や移民の流入などもあり工業都市として飛躍的な成長を遂げた。そうした産業構造の変化にともない富を得た中流階級が、余暇時間を満たすためにスポーツへの関心を高めていったのである。

表1.スペインの地域ごとのアソシエーション数 (1822〜1900年) Torrebadella i Flix, Xavier, Javier Olivera Betrán y Mireia M. Bou “Origen e institucionalización del asociacionismo gimnástico-deportivo en España en el siglo XIX (1822-1900)”, Apunts. Educación Física y Deportes , n. 119-1, 2015, p.48

表1.スペインの地域ごとのアソシエーション数
(1822〜1900年)
Torrebadella i Flix, Xavier, Javier Olivera Betrán y Mireia M. Bou “Origen e institucionalización del asociacionismo gimnástico-deportivo en España en el siglo XIX (1822-1900)”, Apunts. Educación Física y Deportes , n. 119-1, 2015, p.48

 20世紀に入る頃になると、競技ごとの全国組織ができ始める。体操(1895年)をはじめ、自転車(1896年)、射撃(1900年)、テニス、サッカー(1909年)、陸上競技(1918年)、水泳(1920年)、バスケットボール(1923年)などがそれである。一方、自動車は1904年に早くも国際組織が誕生している。

 1888年にバルセローナで開催されたスペイン初の万国博覧会で、サッカーなどのスポーツが行なわれたことも普及に一役買った。特に、注目を集めたのは自転車レースであり、メーカーの出展もあいまって、その後、急速に自転車の組織数を増やすことになる。

 カタルーニャでは祭りの中にスポーツのイベントが組みこまれることも珍しくなかった。例えば、バルセローナの守護聖人であるマルセーの祭りにおいては、1871年に馬のレースやレガッタ、水泳大会が一緒に開催された。また、バルセローナから南に電車で1時間強のタラゴーナでは、1933年の大祭で、カタルーニャの民族舞踊として知られるサルダーナの競技会やサイクリングレース、闘牛や花火に音楽のコンサート、サッカーの試合に民衆芸能の人間の塔(図4)による競技会など多様な催しがなされている。日本では「お祭りの中でスポーツ大会?」といぶかしく思う人がいるかもしれないが、スペインでは「祭り」や「スポーツ」という言葉が表す意味合いがとても広く、両者がしばしば混在する。そしてそれは、市民参加を基盤とする文化としても位置付けられた。

図4 スポーツか文化かと問われている人間の塔 筆者撮影

図4 スポーツか文化かと問われている人間の塔
筆者撮影

学校教育の中の身体活動とスポーツ

 「啓蒙の世紀」、「光の世紀」とされる18世紀は、人間本来の理性を働かせようという思想的潮流の中で、その基盤となる身体の健全性が重要視された。その流れで体育の制度化に努めたのが、スペインの政治家として知られるガスパル・メルチョル・デ・ホベリャーノス(1744~1811年)であった。また「スペインの体育の父」と呼ばれ近代体育の創始者のひとりとして知られるフランシスコ・アモロース・イ・オンデアノ(1770~1848年)も、「民衆教育の父」として名高いスイス人のヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチの影響を受け、マドリードに1806年、王立ペスタロッチ軍隊研究所(Real Instituto Militar Pestalozziano)を開設する。このアモロースの作ったプログラムはフランスの体育でも用いられ、ヨーロッパのモデルになっていく。しかし、アモロースはナポレオンとの戦争後、亡命しなければならず、スペインにおいては長きにわたりアモロースの後継者が出てくることはなかった。

 スペインでは、1857年の「公教育基本法」、つまり当時の大臣の名前にちなんだモヤーノ法により6歳から9歳の児童の義務教育が施行されることになったが、宗教、道徳、読み書きが重視されており、体育の導入にはいたらなかった。公教育においては、1879年に中学・高校段階で体育を必修化しようとする動きが初めて起き、1883年には法規によって体育の実施が定められた。しかし、1886年までそれが公表されることはなく、学校体育の状況が正常化するのは当分、難しかった。

 他方、教育の場における思想信条の自由を求めて設立された「自由教育学院」(1876年~)では体育が重視された。国家から独立した私立の教育機関であり、当時の暗記中心の教育に代わる、教師と生徒の対話による相互教育や課外活動を多く取り入れた体験型教育、自然とのふれあいや男女共学などを特徴としていた。

 1887年には体育教員養成学校が開校し、当時にしては珍しい女性教員の育成も行なわれた。しかし、女性16名、男性71名の教員を養成したあと、予算の不足により1892年にその役目を終えた。そこで1919年に新たに設立されたのが、トレードに建設された陸軍体育学校である。この学校の卒業生が資格を有する体育教員となり、広く体育の指導にあたっていった。

 当事の国王アルフォンソ13世は大のスポーツ好きとして知られているが、その国王から首相に指名されたプリモ・デ・リベーラが軍事独裁政権を樹立(1923~1930年)し、「身体文化(cultura física)」という用語が生み出されていく。

2.スポーツの大衆化とメディア、女性の参画

スポーツマスメディア

 スペインにおけるスポーツの発展は、新聞や雑誌、ラジオ、テレビなどのマスメディアの影響を抜きに語れない。その際に、それが誰によって、いつ作られ、どこで、どのくらいの影響力(発行部数等)があり、どのような主義・主張を持っているかについて意識して把握することが重要である。なぜなら、どの新聞を読むか、どこのチャンネルに合わせてテレビを見るかによって、言語も異なり入ってくる情報も大きく変わってくるからだ。ここでもスペインの多様性を見て取れる。この傾向は現代のスペインにおいても変わらず、この点は日本のマスメディアとはかなり異なっている。

 スペインへの近代スポーツの導入を推進したナルシース・マスフェレー・イ・サラは、1897年、バルセローナにおいて、先に取り上げた雑誌『ロス・デポルテス(Los Deportes)』の発行を始め、スポーツの普及に尽力した。続く1906年には、新聞『エル・ムンド・デポルティーボ(El Mundo Deportivo)』を立ち上げるが、1929年までは日刊ではなかったため、スペインの北部ビルバオで編集された『エクセルシオール(Excelsior)』(1924~1932年)がスペイン初のスポーツ日刊紙ということになる。スポーツ以外にも報道や文化を扱っていた。1912年にはマスフェレーらによってスポーツジャーナリスト組合も設立された。

 また、スペイン北部のサン・セバスティアンで内戦中の1938年に立ちあがった『マルカ(Marca)』は、1940年に編集をマドリードに移したが、常にマドリードのチーム、特にレアル・マドリードの報道に情熱を注ぎ、他の地方のサッカーチームには見向きもしないことで知られている。1942年11月からは日刊紙となり、フランコ独裁体制を支えた「国民運動」の機関紙のひとつとなる。一方、この『マルカ』を1960年代に一時、追い越したのが同じマドリードを本拠地とする『アス(AS)』である。1990年代に全ページ、カラーで発行した最初の新聞でもある。これらに、1979年にバルセローナで発行された『スポルト(Sport)』を加えた4つのスペイン語による新聞がスペインにおける4大スポーツ紙である。

 スペインで初めてテレビの公式放送が始まったのは1956年である。ラジオはそれより30年以上前の1924年に「ラジオ・バルセローナ」が定期放送を始めた。その前年に「ラジオ・イベリカ・デ・マドリード」が試験放送をしていたものの不定期であった。

 筆者の知人の話によると、スペインではテレビよりラジオの方に良いアナウンサーが多いと言う。実際、サッカーの歴史の中で有名な実況アナウンサーを挙げてみると、故マティアス・プラッツ・カニェーテ、ホセ・マリーア・ガルシーア・ペレス、ジュアキム・マリア・プジャル・イ・オルティガといったラジオで活躍するアナウンサーの名がよく挙がる。とくにプジャルは民主化後の1976年に、独裁政権下において公式の使用が禁じられていたカタルーニャ語で初めてサッカーの実況をしたアナウンサーであり、文献学者でもあった彼の放送で幅広いカタルーニャ語を覚えた人もいたという。有名なラジオ局がある都市部では、サッカー場で試合を見ながらラジオを聞いている人をよく見かける。

スポーツの大衆化と女性の参画

 政治史的に見ると、スペインでスポーツが大衆化されていったのはプリモ・デ・リベーラ将軍による独裁から第2共和政が成立する1920年代にあたる。1900年からスペイン内戦の始まる1936年に、ナショナルスポーツの枠組みが強化されたと言われているが、のちに触れる女性の社会進出の拡大期とも重なる。陸上、バスケットボール、ラグビー、競馬が中産階級に愛好された一方で、自転車、ボクシング、とりわけサッカーが大衆の人気を博した。見るスポーツも普及していったのである。

 サッカーの最初の記録は、ラモン・リョピス・ゴッチによると1872年とされる。現存する1部リーグのチームを見てみると、スペイン北部のビルバオでイギリス人労働者とスペイン人留学生によって作られたアスレティック・クルブが1898年に(1901年もしくは1903年という説もあり)、ヨーロッパでも珍しい複数の種目を持つFCバルセローナ(図5)が1899年に、バルセローナ大学工学部の学生たちが作ったエスパニョールが1900年に、「フット・ボール・スカイ」(1897年に設立)などのサッカーチームを前身とするレアル・マドリードが1902年にそれぞれ創立されている。

図5.FCバルセローナの一軍 Vázquez Montalbán, Manuel, 100 años de deporte : del esfuerzo individual al espectáculo de masas, Difusora Internacional, S.A., Barcelona, 1973, p.27

図5.FCバルセローナの一軍
Vázquez Montalbán, Manuel, 100 años de deporte : del esfuerzo individual al espectáculo de masas, Difusora Internacional, S.A., Barcelona, 1973, p.27

1920年に参加したアントワープ五輪のサッカーで、スペイン代表が銀メダルを獲得したことで、現在でも知られる「激情[フリア]」という言葉がスペインサッカーを形容するものとなった。1922年にFCバルセローナに3万人収容のスタジアムが、その2年後にはマドリードに1万5000人のスタジアムが設立され、多くのファンを虜にした。

 スペインサッカー連盟は、1926年に選手のプロ契約を認めた。1928年の秋になって、プロ化した選手に賃金を支払うため試合数を確保する必要性が生じ、全国の有力クラブによるリーグ戦が始まった。ただ、他のヨーロッパの国々と比べると、スペインではインフラや投資の不足があり、この時期のスポーツの浸透には限度があったとされる。

 一方、女性がスポーツをする機会は社会・文化的後押しを受けて徐々に広がっていった。1921年にパリで国際女子スポーツ連盟が生まれたが、スペインの女性たちもこの団体との繋がりを持ち続けていた。1928年には女性だけで構成される女子スポーツクラブ「Club Femení i d’Esports」(図6)がバルセローナで創設され、その後、他の地域で誕生していく女性スポーツクラブのモデルとなっていった。中には、男性のクラブが女性の大会や競技を始めたところもあった。1930年代のスポーツは多くの女性にとって解放の手段であり独立や文化的闘争のシンボルであった。しかし、ここでもその範囲は限定的で、基本的に都市の現象にとどまった。カタルーニャやバスクの女性スポーツクラブは、その後、影響力を持ってくる独裁政権主導の組織とは距離を取っていたといわれる。

図6.女性の女性による女性のためのバルセローナスポーツクラブ(1934年水泳の様子) Pujadas, Xavier [coord.] Atletas y ciudadanos –Historia Social del Deporte en España 1870-2010 , Alianza Editorial,S.A., Madrid, 2011, p.274

図6.女性の女性による女性のためのバルセローナスポーツクラブ(1934年水泳の様子)
Pujadas, Xavier [coord.] Atletas y ciudadanos –Historia Social del Deporte en España 1870-2010 , Alianza Editorial,S.A., Madrid, 2011, p.274

 そのような中、独自のオリンピック誘致運動を続けていたのがカタルーニャだった。FCバルセローナの創始者であるジュアン・ガンペル会長らを使節団として誘致活動を続けたが、1924年はパリ、1928年はアムステルダムに決まった。バルセローナは1936年大会にも名乗りを上げるが、スペインの政情不安を理由に、選ばれたのはベルリンだった。そのベルリン五輪がナチス体制による開催になることを知ると、対抗して、バルセローナでは「人民オリンピック」の開催が計画された。しかし開会式の前に、次節で触れる反乱軍の蜂起が起こり、断念せざるを得なかったのである。こうして「人民オリンピック」に参加するためバルセローナに滞在していた外国人の一部も国際旅団の一員として、ファシズム打倒や革命の理想に燃える若者たちとともに、マドリードをはじめ各地の戦線に散っていった。

3.内戦、そしてフランコ独裁下におけるスポーツ

 このように、スペイン現代史および1930年代のヨーロッパというふたつの文脈で大事件だったのがスペイン内戦(1936~1939年)である。1936年7月17日夕方、スペイン領モロッコにおいて、第2共和政に反旗を翻した軍人たちが反乱を起こしたことから始まる。この内戦は「ファシズムと民主主義の戦い」や「ヨーロッパ中で高まっていた左右対立の最も暴力的な形」として位置づけられる。スペインにいるかぎり誰もこの戦争から逃れることはできず、一方が優勢になり支配を固めると、敵となった人びとを弾圧し処刑した。内戦初期にはほとんどのところで、このような戦いが生まれ、知り合いや友人が敵になったり、同一家族が闘い合ったりしたことも少なくなかった。骨肉の争いと言われる理由である。国民は戦闘以外にも飢えや恐怖にさいなまれたり、強制労働を強いられたりして、スペイン全体では内戦下で約45万人、内戦後に約20万人が犠牲になったとされる。加えて40万人を超える人が亡命し、ヨーロッパ、ラテン・アメリカ、ソ連などに移り住んだという。

 ただ、そのような激しい内戦下においてもスポーツを実践しようとする動きはあった。例えば、スペイン北西部に位置するガリシアではフランコ体制が唯一認めたファランヘ党が、戦時中でもできる限り地元のサッカーなどを通常通り行なうことを目指していたという。しかし、実際のところは内戦前とは比較にならず、スポーツを組織的に行なう者が監視されていたため、過去の追及などを恐れてスポーツを先導する者が出てこなかった。他方、海軍が駐留していたフランコの地元のフェロルには、クラブ・フェロル(現ラシン・デ・フェロル)というサッカークラブが権力の象徴となり、優秀な選手を集めていた。一方、共和国陣営となったカタルーニャでは、スポーツは社会的な役割を担い、フランコ軍と敵対するためのスポーツ大会や戦争被害者のためのスポーツ祭、献血を募るスポーツイベントなどを開催した。それらは、反乱軍に対する抵抗であるとともに、慈善活動として行なわれたスポーツ大会を公式試合とすることで、スポーツ組織の延命を試みるものであった。

 スペイン内戦中の1938年には高等学校で体育が必修になるなど、学校教育の中でも体の強さを求めた身体活動が実践されて軍事を強化していく流れにあった。

 内戦の結果、フランコ率いる反乱軍が勝利すると、独裁体制に反する理念や言動は厳しい処罰の対象になっていった。以降、1975年まで、スペインはフランコ独裁の支配下に置かれることになる。

 まず1940年にはアカデミア・ナショナルが設立され、独裁政権が体育を管理する枠組みが作られた。学校では男女共学が廃止され、男子には厳しい軍事訓練のような体育が課された一方、女子にはスウェーデン体操や民族舞踊のみが教えられるようになった(図7)。

図7.体操をしている女子代表のメンバー(1940年)。左の壁にはフランコ総統の写真とともに「スペイン万歳、フランコ万歳」の文字。 César Iglesias, Julio, El Deporte en España 1939-1992, Lunwerg Editores, Barcelona, 1992, p.67

図7.体操をしている女子代表のメンバー(1940年)。左の壁にはフランコ総統の写真とともに「スペイン万歳、フランコ万歳」の文字。
César Iglesias, Julio, El Deporte en España 1939-1992, Lunwerg Editores, Barcelona, 1992, p.67

 一方、1941年2月にはスポーツの全国連盟や地方連盟の会長・副会長を指名する権限と、連盟のあらゆる決定を取り消す拒否権を持った国民スポーツ局により、地域スポーツの支配が始まった。フランコ政権は国民に厳しいジェンダー規範を課し、そのため女性のスポーツは、バスケットボール、バレーボール、体操などに限られ、陸上競技は許されなくなった。こうして体育・スポーツは独裁政権により全面的に掌握され、利用されていった。

 スペインのスポーツ史研究は、1940~1950年代が見るスポーツの最盛期であり、この時期、サッカーが「スポーツの王」として君臨したことを教えてくれる。フランコ政権はサッカーの宣伝力を利用するため、代表のユニフォームを伝統の赤からファランヘ党員のシャツの色である青に変えたり、選手に右手を斜めに高く挙げて敬礼をさせたり、ファランヘ党の党歌である「太陽に顔向けて(Cara al sol)」を歌わせたりした。また、サッカーは国際関係を結ぶ役目も担った。スペインはドイツ、イタリア、フランス、ポルトガル、スイスと親善試合を行なうとともに、こうした機会をとらえてファシズムを標榜する演説を行ない、反共産主義の姿勢を打ち出していった。

 スペインは第2次世界大戦で中立を保ったが、ドイツが破れたのを機にファシズム色の払拭を図っていく。1945年にはファシスト式の敬礼を公式なものとすることをやめ、1947年には代表の青いシャツを赤に戻した。ただし、フランコ政権によるサッカーの政治利用はその後も続いた。レアル・マドリードがフランコのお気に入りのクラブであることが公然たる事実となると、クラブ同士のライバル関係にも徐々に政治的な意味が付与されていった。

 共和国と地域主義のシンボルとされたFCバルセローナは、フランコによって弾圧されるカタルーニャの人びとの拠り所となっていった。ホームスタジアムの座席に大きく記されている「バルサは単なるクラブ以上の存在(El Barça és més que un club)」という有名な表現も、そうした由来を持つ。これは、1968年1月17日付『ラ・バングアルディア・エスパニョーラ』紙に掲載されたある人物の発言からとったものだった。その人物とは同日にバルサの会長に就任した保守派カタルーニャ主義の伝統を代表するナルシース・ダ・カレーラス・イ・ギテーラスであり、その言葉はFCバルセローナが訴え続けているフットボールの民主化ともまさに一体のものであった。

4.民主化と国際大会の開催

 フランコによる独裁体制は、フランコの死去(1975年)とともに崩壊に向かった。1977年には、軍事独裁により仕切られていたアカデミア・ナショナルが国立体育研究所(INEF)に吸収され、1980年には新たなスポーツと身体文化に関する法律が制定された。そして小学校にあがる前の幼児教育(3~5歳、義務化されていない)から体育が必修になった。また、大学でも身体活動の授業が設けられ、1999年からは体育の管轄がそれぞれの自治州に移った。全体主義国家による身体の管理と利用は2000年を前に、ひとまず地域に委ねられ、現在にいたっている。

 スペインのスポーツ界において、民主化ならびに国際化を大きく印象付けたのが、1982年にスペインの14都市17スタジアムを会場として開催されたサッカーのワールドカップと、1992年にバルセローナで開催された夏季オリンピック・パラリンピックであろう。とくに、バルセローナオリンピック・パラリンピックは、1991年にソ連が崩壊し、冷戦が終結した後に、初めて開かれた大会として人びとの記憶に刻まれた。点字が施されたメダルが初めて授与されたのは、このバルセローナパラリンピックであった。

 このパラリンピックを大きく支えたのが「オンセ(ONCE:Organización Nacional de Ciegos Españoles)」の名で知られる国立スペイン盲人協会(スペイン視覚障害者協会)である。オンセは40億ペセタ以上(1ユーロ133円で計算すると約32億円以上)の財政援助や広報分野での支援、短期間ではあったが選手が大会前に準備するための奨学金助成などで大会を後押しした。オンセは、スペインの街を歩いているとよく見かける小型のボックスで宝くじの販売なども手掛けているが、もともとはスぺイン内戦で兵士の多くが失明したことから、1938年に視覚障がい者の自立と社会参加を目指して設立された。障がい者の雇用や教育、点字図書館などをバックアップするだけでなく、現在でもスポーツの支援を行なっている。

 スペインのスポーツを語る上で、政治とアイデンティティとの関わりは欠かせない。その一方で、スペインを訪れるたびに筆者が感じることがある。それは、私たちひとりひとりの違いを認め、それぞれが勝者であることを再認識させてくれるという得難い感覚だ。

「私たちはみな異なっている。私たちは私たちなりのやり方でみな特別だ。私たちのそれぞれは炎の中に輝きと創造力を持っている……」。 (車いすのイギリス物理学者 故ホーキング博士)

 20年以上にわたって国際オリンピック委員会の会長を務めたカタルーニャ出身のスペイン人、ジュアン・アントニ・サマランクの名が付されたオリンピック・スポーツミュージアムの床には、こう記されている。それは、多くの移民が出入りし、自らも歴史の中で血と汗を流し続けてきた「モザイク社会スペイン」らしい言葉でもある。

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ミエリン鞘はとも呼ばれ、軸索に巻き付いて絶縁体として働く構造である。これにより神経パルスはミエリン鞘の間隙を跳躍的に伝わる(跳躍伝導)ことで神経伝達が高速になる。ミエリン鞘は末梢神経系の神経ではシュワン細胞、中枢神経系ではオリゴデンドロサイトから構成される。

脳の中にある空洞のこと。脳脊髄液で満たされている。脊髄にあるものは中心管と呼ばれる。

神経堤細胞は脊椎動物の発生時に見られる神経管に隣接した組織。頭部では神経、骨、軟骨、甲状腺、眼、結合組織などの一部に分化する。

細胞の生体膜(細胞膜や内膜など)にある膜貫通タンパク質の一種で、特定のイオンを選択的に通過させる孔をつくるものを総称してチャネルと呼ぶ。筒状の構造をしていて、イオンチャネルタンパク質が刺激を受けると筒の孔が開き、ナトリウムやカルシウムなどのイオンを通過させることで、細胞膜で厳密に区切られた細胞の内外のイオンの行き来を制御している。刺激の受け方は種類によって多様で、cGMPが結合すると筒の穴が開くものをcGMP依存性イオンチャネルと呼ぶ。TRPチャネルも複数のファミリーからなるイオンチャネルの一群であり、非選択性の陽イオンチャネルである。発見された際に用いられた活性化因子の頭文字や構造的特徴から、A (Ankyrin), C (canonical), M (melastatin), ML (mucolipin), N (no mechanoreceptor), P (polycystin), V(vanilloid)の7つのサブファミリーに分類されている。TRPは、細胞内や細胞外の様々な刺激によって活性化してセンサーとして働いたり、シグナルを変換したり増幅したりするトランスデューサーとしての機能も併せ持つ。温度センサーやトウガラシに含まれるカプサイシンのセンサーとしても機能していることが知られている。

任意の遺伝子の転写産物(mRNA)の相同な2本鎖RNAを人工的に合成し生物体内に導入することで、2本鎖RNAが相同部分を切断して遺伝子の発現を抑制する手法。2006年には、この手法の功績者がノーベル生理・医学賞を受賞している。

様々な動物種間で塩基配列やアミノ酸配列を比較することによって、類似性や相違を明らかにする手法。この解析によって動物種間の近縁関係や進化の過程を予測することが可能になる。

発生過程で神経管を裏打ちする中胚葉組織であり、頭索類・尾索類では背骨のような支持組織としての役割を持つ。脊椎動物では運動ニューロンの分化を誘導するなど発生学的役割を持つ

魚類に顕著にみられる鰓のスリットで、哺乳類では発生の初期にはみられる。発生が進むと複雑な形態形成変化が起き、消失するが、外耳孔などは鰓裂の名残ということができる。

動物の初期発生において最初の形態形成運動として原腸陥入が起こる。原腸は消化管に分化する。この原腸陥入によって生じる「孔」を原口と呼ぶが、これが将来の動物の体の口になるのが前口動物であり、肛門になるのが後口動物である。半索動物、脊索動物は後口動物である。

ナマコの幼生のことをオーリクラリア幼生と呼ぶが、ウニのプルテウス幼生、ヒトデのビピンナリア幼生、ギボシムシのトルナリア幼生など、形態的共通性をもつ幼生全体をまとめてオーリクラリア(型)幼生と呼ぶ。今日ではディプルールラ型幼生という呼び方が広く使われている。この説はガルスタングが1928年に提唱した。その時代にはオーリクラリアという用語が使われたため(ディプリュールラ説ではなく)オーリクラリア説と呼ばれている。

Hox遺伝子はショウジョウバエで発見されたホメオティック遺伝子の相同遺伝子である。無脊椎動物のゲノムには基本的に1つのHoxクラスターがあり、脊椎動物のゲノムには4つのHoxクラスターがある。Hoxb1は4つあるクラスターのうちのBクラスターに属する1番目のHox遺伝子という意味である。

脊椎動物胚の後脳領域には頭尾軸にそった分節性(等間隔の仕切り)がみられる。この各分節をロンボメアと呼び、図14に示すように7番目までは形態的に明瞭に観察できる。

脊椎動物のゲノムにはふたつか3つのIsletが存在する。Isletは脳幹(延髄、橋、中脳)の運動性脳神経核に発現して、運動ニューロンの分化に関与している。

感桿型では光刺激はホスホリパーゼCとイノシトールリン酸経路を活性化させる。繊毛型ではホスホジエステラーゼによる環状GMPの代謝が関与している。

気嚢による換気システムは獣脚類と呼ばれる恐竜から鳥類に至る系統で段階的に進化していったと考えられる。

このような特異な形態は胚発生期には見られず、生後に発達する。その過程は頭骨に見られる「テレスコーピング現象」と並行して進む。

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卵や精子、その元となる始原生殖細胞などを指し、子孫に遺伝情報が引き継がれる細胞そのものである。

卵や精子を作る減数分裂において、母由来の染色体と父由来の染色体が対合したときに、同じ領域がランダムに入れ替わる(組み換えられる)。つまり、我々の”配偶子の”染色体は、父親と母親由来の染色体がモザイク状に入り交じったものなのである(体細胞の染色体は免疫グロブリンなどの一部の領域を除いて基本的には均一なものと考えられている)。

 タンパク質にコードされる遺伝情報をもつ塩基配列。狭義にはゲノムDNAのうち、mRNAに転写され、タンパク質になる部分。近年は、タンパク質に翻訳されないものの、機能をもつtRNA、rRNAやノンコーディングRNAなども遺伝子の中に含められるようになっている。本書では、特に注意書きのない限り、タンパク質の元となるmRNAになる部分を遺伝子、と呼ぶ。

 では、その転写因子はなにが発現させるのか、というと、やはり別の転写因子である。卵の段階から、母親からmRNAとして最初期に発現する遺伝子は受け取っているので(母性RNA)、発生の最初期に使う転写因子を含む遺伝子群に関しては、転写の必要がないのである。その後、発生、分化が進んでいくと、それぞれの細胞集団に必要な転写因子が発現し、実際に機能をもつ遺伝子の転写を促す。

遺伝子は、核酸配列の連続した3塩基(コドンと呼ばれる)が1アミノ酸に対応し、順々にペプチド結合で繋げられてタンパク質となる。3つの塩基は43=64通りになるが、アミノ酸の数は20個、stopコドンを含めても21種類しかない。したがって、同じアミノ酸をコードするコドンは複数あり、たとえ変異が入ってもアミノ酸は変わらないことがある。これを同義置換と呼ぶ。一方で、変異によってコードするアミノ酸が変わってしまう置換を非同義置換と呼ぶ。

 ふたつの系統が祖先を共通にした最後の年代。本章では、近年の分岐年代推定を利用して作成された系統樹(当該文献[9]のFig.1を参照)からおよその年代を読み取り、記入している。

 アフリカツメガエルや、コイ科、サケ目など、進化上の随所でも全ゲノム重複が起こっている。

 最もよく知られている放射性同位元素による年代測定は、放射性炭素年代測定である。炭素12Cは紫外線や宇宙線によって、空気中では一部(1/1012)が常に14Cに変換されている。つまり、大気中ではいつの時代も1兆個の炭素原子のうちひとつが14C、残りが12Cという割合なのである(太陽活動の変化などにより若干のブレはある)。しかし一旦生物の体内に炭素が取り込まれ、そしてその生物が死に、地中に埋まってしまえば、もう宇宙線も紫外線も当たらないので、14Cへの変換は起こらない。ここで14Cは放射性同位元素であることに注目したい。14Cは約5730年で半分が崩壊し12Cに変換される。したがって、14Cの比率でいつその物質が地中に埋まったのかがわかるのである(文献7)。

 ただし、この放射性炭素年代測定では、14Cの検出限界の関係で、せいぜい6万年が限界である。それより昔は火山岩に含まれる物質の、やはり放射性崩壊の半減期を元に推定される。例えば、K-Ar法では、40Kが40Arに13億年の半減期で放射性崩壊することを利用する。溶岩からできたての火山岩か、あるいは何億年も経ったものかを調べることができる。40Kは岩石中に元々大量に存在するため、差異を検出することは不可能だが、40Ar(常温で気体)は大気中には微量しか含まれないため、岩石中に封入された気体の中の40Arの含有率を計測することにより、その岩石の古さがわかる。当然、40Arの率が高い物が古い岩石である。このように、複数の放射性元素の崩壊の半減期から地質年代というのは推定される。

 南米にもごく少数ながら有袋類が現存しており、これらのゲノム解析・比較から、オーストラリア・南米で現生の有袋類の共通祖先は、実は南米で生まれ、当時陸続きだった南極大陸を経て、オーストラリアにいたったと考えられている。

 世界で最も臭いといわれているシュールストレミングをネットで取り寄せて購入したとき、人々は逃げるどころか、わざわざ悶絶するために集まってきた。いい匂いの物を取り寄せても20人もの人数は集まるとは思えず、怖い物見たさという悪趣味な好奇心はたいしたものである。無論、取り寄せた私も例外ではない。ちなみに、シュールストレミングはひとかけらをクラッカーの上に載せるくらいの食べ方なら悪くない気もする。

このふたつの硬骨の作られ方について、第3章に詳述があるので参照。

 ガノイン鱗には我々の歯のエナメル質を作る遺伝子と相同な遺伝子が発現しており(文献18)、イメージとしては歯で身体を覆われているようなもので、当然極めて強固である。

 遺伝子にはその由来によっていくつかの異なる呼び名がある。オーソログとは、共通祖先がもつある遺伝子Aが、種分化によって2種以上の生物に受け継がれた時、受け継がれた遺伝子たちをオーソログと呼ぶ。パラログとは、遺伝子重複によって生じたふたつ以上の遺伝子を指す。最近では大野乾氏の功績をたたえ、ゲノム重複によって生じたパラログで現存するものを特にオオノログOhnologと呼ぶ。

 異化と同化……この2種類の化学反応によって生命活動は維持されている。異化は物質を分解してエネルギーを取り出す代謝経路、同化はエネルギーを使って必要な物質を体の中で作り出す代謝経路。

 アデノシン三リン酸の略。生体内のエネルギー通貨として、様々な化学反応に用いられている。

 組織中の核酸分子(ここでは特定の遺伝子から転写されたmRNAを指す)の分布を検出する手法。調べたい遺伝子の塩基配列を元に、そのmRNAに特異的に結合する分子を設計・合成することで特異度の高い検出が可能となっている。

 通常の生物の核ゲノムはそれぞれの両親に由来する染色体が2本1セット存在し(ディプロイド)、その染色体間で組み替えが起こるため遺伝的な由来を辿る作業がしばしば煩雑になる。しかしミトコンドリアは母親由来であるため(ハプロイド)、そのゲノムを利用することで比較的簡便に遺伝的な類縁関係を遡ることが可能となる。

 増幅断片長多型:制限酵素で切断したゲノムDNA断片をPCRにより増幅し、断片の長さの違いを網羅的に検出比較する方法。この断片長の違いを種間の類縁関係の推定に使用することが多い。

 sexual conflict。ある形質が片方の性にとっては有利だが、もう片方の性にとっては不利な場合にオスメス間で生じる対立。

 次世代シーケンサーを利用して、各組織に発現する遺伝子の種類や量を網羅的かつ定量的に推定する解析方法。

 真核生物のゲノムに散在する反復配列のうち、一度DNAからRNAに転写され、その後に逆転写酵素の働きでcDNAとなってからゲノム中の別の座位に組み込まれるものを指す。数多くのレトロポゾンが存在しており、例えばヒトゲノムは約40%がレトロポゾンによって占められている。

 太陽光には連続したことなる波長成分の光が含まれているが、その波長によってエネルギーが異なるため、水中に到達する波長成分の割合が深さによって異なることがわかっている。特に濁ったビクトリア湖のような水環境では浅場の方が短波長である青色光の成分が多く、深場では長波長の黄色〜赤色の成分が多いことがわかっている。

 タンパク質をコードするDNA配列上の塩基置換にはアミノ酸の置換を伴う非同義置換と、伴わない同義置換がある。一般に、同義置換は生体に影響を及ぼさないため中立であるが、非同義置換は生体にとって不利であることが多い。ただしタンパク質の機能変化が個体にとって有利な場合は非同義置換の割合が上昇することが知られており、それを正の自然選択と呼ぶ。同義置換と非同義置換の割合を統計学的に比較する方法がある。詳細については第7章およびコラム「適応進化に関わる候補遺伝子や候補領域を絞り込むアプローチ」を参照。

   発生初期の胚の一部の細胞群から作られ、生殖細胞を含む様々な組織に分化可能な性質(多能性)を有する細胞株。英語名(embryonic stem cells)の頭文字をとって、ES細胞と呼ばれることも多い。

 変異体を元になった親系統と交配すること。TILLING変異体に関しては変異以外の部分を親系統由来のゲノムに置換するために行う。1回の交配で全体の50%の領域が置換されるため、90%以上を置換するためには最低4回の、99%以上を置換するためには最低7回の戻し交配が必要である。

 タンパク質の二次構造のうち代表的なモチーフのひとつ。水素結合により形成されたらせん状の形である。

 Francis Crickが1958年に提唱した、遺伝情報がDNA→(転写)→mRNA→(翻訳)→タンパク質、という流れで伝わるという概念のこと。分子生物学の基本となる極めて重要な概念である。

 ヒメダカの原因遺伝子としてだけでなく、ヒトの先天性白皮症(つまりアルビノ)やホワイトタイガーの原因遺伝子としても知られる。水素イオンを運ぶトランスポーターをコードすることがわかっているが、その黒色素産生(メラニン合成)における機能は未解明な点が多い。

 相同組換えの鋳型となる外来DNA断片のこと。通常、導入したい配列(GFP遺伝子や特定の塩基置換など)の上流・下流それぞれに、導入したいゲノム領域と相同な配列(相同アームと呼ばれる)を持ったDNA断片である。

 RNAポリメラーゼが結合し、RNAを転写するのに必要最小限の遺伝子上流配列。通常、単独では下流の遺伝子は転写されないが、周辺に転写活性化領域(エンハンサーなど)が存在すると、その影響を受けて下流に存在する遺伝子が転写される。

 オオシモフリエダシャクの「工業暗化」の例を考えるとわかりやすい。これは、産業革命以降のイギリスで、暗化型と呼ばれるより黒い個体の割合が多くなったとされる例である。この蛾は、自然が多い地域では淡色型が目立ちにくく、鳥に捕食されづらかったが、すすで黒くなった木が多い工業地帯では、より黒い暗化型のほうが目立ちにくく、生き残りやすかった。この場合、仮に蛾の色をより黒くするアミノ酸変異が生じたとすると、そのアミノ酸変異は工業地帯で生存に有利で、固定されやすいだろう。ちなみに、近年、具体的にどんな遺伝的変異がこの工業暗化に関わっていたのかが詳細に解析されつつある。

 SWS = short wave sensitive opsin、つまり短波長の光に感受性をもつオプシンのサブタイプ。

 第4章にも記載されているように、深いところには波長の長い赤い光のみが届く傾向がある。つまり、水深の深いところに棲む集団では、青い光を感受するSWSの機能は重要ではなくなってしまう。

 Gタンパク質はGTP結合タンパク質ともよばれ、GTPと結合することで活性化される。GTPを加水分解する性質をもっており、結合しているGTPがGDPに加水分解されると自身が不活性化される。受容体からの信号を中継するものは三量体(α、β、γサブユニット)として存在している。

 神経伝達物質は、放出された後、即座に分解されなければ迅速な伝達を成し得ない。したがって、こういった分解酵素の存在は、ATPが実際にその部位で神経伝達物質として働いていることの傍証となる。

 セロトニンは生体内に存在するモノアミンの一種であり、神経系では神経伝達物質として機能する。生体内のセロトニンの大部分(〜95%)は腸管に存在しており、神経系に存在するものは割合としては小さい。神経系では中脳の縫線核という部位のニューロンで産生され、情動機能等に関係しており、セロトニンの再取り込み阻害剤には抗鬱薬の作用がある。味蕾に存在するセロトニンはそれらとは別の働きをもっていると考えられる。

 迷走神経には感覚性の線維と運動性の線維の両方が含まれており、ここでの迷走感覚神経とはその中の感覚性の要素のみを指す。

 神経細胞(ニューロン)で、突起状の構造(軸索や樹状突起)以外の、核の周辺部の構造を細胞体という。

 ある細胞が放出するリガンドが、その細胞自身の受容体に働くことを自己分泌という。近傍の細胞の場合は傍分泌と呼ぶ。近隣の同じ性質をもった細胞に作用する場合と、自分自身に働く場合を合わせて、自己・傍分泌と呼ぶことが多い。哺乳類のキスペプチンニューロンは、キスペプチン以外に放出するニューロキニンB、ダイノルフィンと呼ばれるペプチドが、キスペプチンニューロン自身に作用することで、アクセルとブレーキのように働き、そのタイムラグでキスペプチンの放出を間歇的に引き起こす。これが前述のGnRHパルスを生み出しているとされている。

 市場に出ている子持ち昆布の中には、ニシン以外の魚(タラの仲間など)を用いて加工されているものもある。また、本物のニシンの卵の場合も、自然に海藻に産みつけられた卵はもっとまばらなので、あのようにびっしりと卵が並んで食べ応えのある子持ち昆布は人為的に作られているようだ。

 タンパク質の一次構造を形成する際にアミノ酸間に形成されるペプチド結合ではなく、側鎖にあるアミノ基とカルボキシル基の間に形成されるペプチド結合のこと。

 2-⑴で述べたように魚類の卵膜の別名は“コリオン”である。将来コリオンになるタンパク質のため、“材料”の意味をもつ“-genin”をつけて、コリオジェニンと呼ばれている。

 遺伝子のうち、半数体ゲノムにつき1コピー(体細胞では2コピー)しかない遺伝子以外のもの。

 共通祖先から生じたいくつかの遺伝子のうち、異なる生物種において類似または相同な機能をもつ遺伝子同士のこと。たとえば、ヘモグロビン、ミオグロビン、サイトグロビンなどは共通祖先から由来するグロビン遺伝子ファミリーであり、ヒトもマウスもこれらの遺伝子をもつが、このうちヒトのヘモグロビン遺伝子とマウスのヘモグロビン遺伝子はオーソログの関係にあるといえる。

 遺伝子ファミリーの中には、突然変異などによって機能を失ってしまうものがある。例えば、変異によって翻訳の途中にストップコドンが入ったり、プロモーターの欠損による転写不能や、転写後のプロセッシングに関与する配列の欠如による成熟mRNAの形成不全などがある。このように、配列の痕跡は残っており、どの遺伝子ファミリーに属するかは明らかだが、機能的でない遺伝子を偽遺伝子(Pseudogene)という。

 魚類では毎年数百の新種記載があり、2018年現在において硬骨魚類の現生種の記載数は3万をこえる。

 栄養リボンという邦訳は、山岸宏『比較生殖学』(東海大学出版会、1995年)による。

 第8章で触れられているデンキウナギなどは、長い身体の大部分が発電器官になっており、肛門の位置が同じように著しく前方に位置する。

 酵素活性は同じであるが、アミノ酸配列の違いによって性質の異なる酵素タンパク質。タンパク質の電気泳動度の差異から、その支配遺伝子座における遺伝子型の差異を検出できる。

 生物相の分布境界線で、この線を挟んで動植物相が大きく変化する。この線の西側が東洋区、東側がオーストラリア区とされる。ウォーレスとウェーバーがそれぞれ異なる境界線を提唱した。スラウェシ島やティモール島は両者の境界線の間に位置する。

 個体や系統を識別する上で目印となるDNA配列のこと。系統間で塩基配列が異なる領域があれば、そこをDNAマーカーとして利用できる。

 ゲノムDNAを制限酵素で切断し、100〜200kbの断片を細菌人工染色体(BAC)ベクターに組み込んでクローン化したもの。大きな領域の物理地図や塩基配列決定に必要とされてきた。

 DNAマーカーや既知のクローンを用いて、配列が一部重なり合うクローンを同定する作業を繰り返し、目的遺伝子近傍のクローンコンティグを作成する方法。

 ミュラー管とは哺乳類の発生過程で将来卵管になる管で、オスではこのホルモンの働きによって退縮する。しかし、真骨魚類にミュラー管はなく、別の機能をもつと考えられる。

 メダカ博士こと山本時男博士は、1953年d-rR系統(オスが緋色、メスが白色の限定遺伝をもとに育成作出された系統、X染色体上に潜性(劣性)のr遺伝子、Y染色体状に顕性(優性)のR遺伝子をもつ、体色により遺伝的な性の判別が可能)の孵化直後から性ホルモンを経口投与して性の人為的転換に成功した。すなわちXrXrでもアンドロゲン投与によりオスとなり、正常メスXrXrと交配して、メスメダカばかりを生んだ。XrYRもエストロゲン投与によりメスに性転換し、正常のオスXrYRと交配した。性ホルモンによる性転換が多くの研究者から示されていたが、山本博士によって初めて遺伝的な性と性ホルモンによる性転換の関連が明らかにされた。コラム⑧も参照。

 コ・オプション(co-option)、遺伝子の使い回し。既存の遺伝子が新たな機能を担うようになること。

 非同義置換よりも大きな影響を与えるのがフレームシフトである。3の単位で塩基は読まれていくが、もし、3の倍数以外の挿入/欠失が起こった場合は、その後の配列が全て読み枠がズレてしまい、その挿入/欠失より後(C末端側)ではまったく異なるタンパク質ができてしまう。

008年9月15日に、アメリカ合衆国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズ・ホールディングス(Lehman Brothers Holdings Inc.)が経営破綻したことに端を発して、連鎖的に世界規模の金融危機が発生した事象を総括的によぶ通称

通称ブレグジット(英語: Brexit)とは、イギリスが欧州連合(EU)から離脱すること