はじめに
中央ヨーロッパに位置するチェコ共和国は面積が北海道より狭い小国である。しかし、首都プラハには世界で最も大きいと言われるスタジアムがある。市内を流れるヴルタヴァ(モルダウ)川西岸の丘の上にあるストラホフ・スタジアムである。そのグラウンドは南北の長さが311メートル東西が203メートルの長方形で、面積は約6万3000平方メートルあり、東京の国立競技場がすっぽり入ってしまうほどの大きさである。グラウンドの四方を囲むスタンドの収容人員は25万人とも28万人とも言われている。ただし座席の数は9万6000で、それ以外は立見席である。
現在のストラホフ・スタジアムにはサッカー・グラウンドが8面設けられ、サッカーの練習場になっているが、第2次世界大戦後の社会主義体制下ではこのスタジアムを主会場にしてスパルタキアードという総合的なスポーツ祭典が開催されていた。そのためかつてはスパルタキアード・スタジアムと呼ばれていたが、スパルタキアードのために建設されたわけではない。国立の施設としてこのスタジアムが建設されたのはチェコスロヴァキアの建国後まもない1926年のことであった。それまでにもプラハでは大規模なマスゲームをメインにした祭典が開催されており、ますます大規模化するマスゲームの演技に適した常設のスタジアムが求められていたのである。
ストラホフ・スタジアムで最初に開催された祭典は1926年の第8回ソコル祭典であった。ソコル祭典とスパルタキアード以外にも、20年代後半から30年代にかけてオレル祭典、労働者オリンピアードといった祭典も開催されている。いずれもマスゲームを中心にしたスポーツ祭典であったが、このスタジアムでのマスゲームの実施は、チェコとスロヴァキアが分離した翌年の1994年の第12回ソコル祭典が最後となった。ストラホフ・スタジアムでは多い時には3万人を越える演者によるマスゲームが行なわれていた。それは世界最大のスタジアムにおける世界最大級のマスゲームであり、スポーツの世界史におけるチェコの特徴を示すものである。
というわけで、この章ではストラホフ・スタジアムで開催された祭典の歴史をとりあげる。
1.4つの祭典のはじまり
ソコル祭典、オレル祭典、労働者オリンピアード、スパルタキアード、この4つの名称の祭典はいずれもストラホフ・スタジアムの建設以前から実施されていた。最初にそれぞれの祭典とその主催団体について簡単に紹介しておこう。
最も歴史が古いのはソコル祭典で、1882年には第1回祭典が開催されている。「ソコル」とはチェコ語で隼[はやぶさ]のことであるが、敏速かつ頑強で勇敢な民族解放の戦士の象徴でもあった。1862年にプラハで設立された体操協会の名称にこの語があてられ、プラハ・ソコルと称せられた。その後、チェコの各地でこれを模したソコル協会が設立され、89年にはボヘミア(チェコの西部)のソコル協会を統括するボヘミア・ソコル連盟が誕生する。96年にボヘミアだけでなくオーストリア帝国内のチェコ人の全てのソコル協会を統括するチェコスラヴ・ソコル連盟に改組され、第1次大戦後にはチェコスロヴァキア・ソコル連盟となる。
第1回祭典の主催者はプラハ・ソコルであったが、第2回以降ソコル連盟の行事となる。ストラホフ・スタジアムでは、第8回祭典から1948年の第11回祭典までの4回と体制転換後の第12回祭典とあわせて5回開催されている。2000年の第13回祭典以降はサッカー・グラウンド一面の小さな会場での開催となるが、4つの祭典のうち唯一現在も続けられている。2018年の第16回祭典は建国100周年を記念する祭典となった。
なお、農業党、国民社会党、国民民主党といった両大戦間期の主要な「チェコスロヴァキア人」政党(他にドイツ人政党、ハンガリー人政党などがあった)の国会議員がソコル会員となっていたが、1924年の連盟総会は、人民党および共産党の党員はソコル会員と認めないという決定をくだし、彼らを排除した。
「オレル」はチェコ語で鷲をさす。19世紀末からカトリックの信仰を方針に掲げる体操組織が設立され始めるが、これらの組織は1908年にキリスト教社会党(後の人民党)の傘下に置かれることとなり、その翌年に「オレル」という組織名称が採用される。この名称の採用はスロヴェニアのカトリック系体操団体を模倣したものと言われている。全国規模でのオレル祭典は1922年にモラヴィア(チェコの東部)の中心都市ブルノで第1回祭典が開催されたのであるが、第1次大戦以前にも1909年、10年、12年の3回モラヴィアの領邦祭典として開催されている。ストラホフ・スタジアムでは1回だけ29年に第2回祭典が行なわれた。
ソコル祭典もオレル祭典も「祭典」の原語は「スレト」で、元の意味は鳥が飛んで集まることである。オレルはソコルからこの用語を借用したのであるが、それだけでなく体操の内容もソコルとまったく同じであったと言われている。
労働者オリンピアードは、社会民主党系の労働者体操協会連合(1903年創設)の主催行事である。労働者オリンピアードの開催は、第1次大戦前にも試みられたが実現したのは大戦後のことで、21年、27年、34年と3回開催され、第2回と第3回がストラホフ・スタジアムで行なわれている。21年の第1回労働者オリンピアードの開催とまったく同じ時に第1回スパルタキアードも開催されている。これは共産党系の労働者体操協会連盟の行事であった。第1次大戦後の社会民主党内の左右の対立と左派による共産党の創立という事態と同じことが労働者体操運動においても起きていたのである。その後労働者体操協会連盟のスパルタキアードは22年にモラヴィアの地方祭典として1回開催されているが、それ以降は1度も開催されていない。名称を変更したプロレタリア体育連盟が28年にストラホフ・スタジアムでの第2回スパルタキアードの開催を準備したが、国から会場使用の許可が得られず開催することができなかったと伝えられている。
第2次大戦後の社会主義体制の下では、「プラハの春」の影響で未開催となった1970年を除いて、55年から85年まで5年ごとに6回、国家的事業としてスパルタキアードが開催されている。いずれも主会場はストラホフ・スタジアムであった。
2.変容するソコル祭典―体操祭からマスゲームを中心にしたスポーツ祭典へ
最も歴史の古いソコル祭典は他の祭典にとって参照すべきモデルとなった。この節ではまずソコル祭典をとりあげ、プログラムの変化のようすを見るが、その前にチェコにおける近代スポーツの組織化状況に触れておこう。
表1は、第1次大戦以前のボヘミアにおける主なスポーツ種目の最初のクラブの設立年と、それぞれの種目の統轄組織の設立年を示したものである(表中の重競技とはレスリングと重量挙げのことである)。統轄組織が誕生し始める1880年代以降が近代スポーツの普及期とみなしてよいであろう。少し補足すると、1868年創立のボート・クラブはチェコ人とドイツ人の共同のクラブであった。プラハ・ソコルも当初はドイツ人と共同の組織として構想されていたのであるが、財政的支援者の意向にしたがってドイツ人だけの体操協会が生まれることになり、その結果として誕生したのがチェコ人のプラハ・ソコルであった。同様に体操以外のスポーツ種目においてもチェコ人とドイツ人が別々に組織を設けるようになるのはおおむね1880年代以降のことのようである。また、19世紀末から20世紀初頭にかけてのスポーツの国際化の時期には、国際オリンピック委員会やサッカーなどの種目別国際競技連盟の多くが「一国一団体」の原則を採用するようになり、1度加盟が認められたチェコの組織が追放されるなど複雑な様相を呈した。これに対して国際体操連盟の前身であるヨーロッパ体操連盟(1881年創立)は「諸国民の連盟」を組織方針として採用していた。そのため、1897年に加盟が認められたチェコスラヴ・ソコル連盟はその後も一貫して会員であり続けることができたのである。
さて本題に戻ろう。1882年の第1回ソコル祭典はプラハ・ソコル設立20周年記念の祭典であった。ソコル運動の創始者で初代体操指導者長のミロスラフ・ティルシュ(1832~84年)が祭典の実地指導にあたった。祭典の規模(表2および表3を参照)と同様プログラムも質素で、祭典の期間は1日かぎり、コンサートを含む前夜祭はあったが、当日のプログラムはプラハ市内のパレードと祭典会場での集団徒手体操と器械体操(跳躍や登攀などを含む)の演技だけであった。競技はまだ実施されておらず、プログラムに競技が導入されるのは第2回祭典からである。なお、パレードとコンサートなどの文化行事はソコル祭典に限らず他の祭典でも採用されていた重要な構成要素であるが、以下ではこの点にはふれず競技および演技の変化について見てみよう。
まずは競技種目の増加について。第2回祭典では体操競技(団体)だけが実施された。第3回祭典では体操競技(個人)と徒手競技(徒手体操・登攀・跳躍・走の4種目総合の個人競技、40点満点の得点制)が追加されるが、ここまでは全て当時の体操競技の範疇に入るものである。第4回祭典で初めて個別種目の競技(円盤投げ、走り幅跳び、走り高跳び、三段跳び、レスリング)が導入される。なお、この第4回祭典まで競技はすべて観衆のいない早朝に非公開で実施された。それは競争主義の蔓延を防止するためであった。第5回の水泳以降、フェンシング(第6回)、射撃、ハンドボール(第7回)、スキー、バレーボール、バスケットボール(第8回)、テニス、馬術、ボート、カヌー、カヤック(第9回)、アイスホッケー、フィギュアスケート、バイアスロン(第10回)と増えていき、両大戦間期最後の第10回祭典では体操競技から独立した重量挙げを含め19種目の競技が実施された。出場者の最も多い体操競技が中心であったことはまちがいないが、以上のように種目数の増大に着目すれば、ソコル祭典は体操祭から総合的なスポーツ祭典に変わっていったと言って良いであろう。
次にマスゲームを中心とする演技の変化について述べるが、ここでは祭典プログラムの大枠の変化についても触れながら、祭典主会場で実施される演技がマスゲームだけになっていく様子を見てみよう。
第1の変化は、出場する会員の性別、世代別の拡大にともなって、1907年の第5回祭典以降、祭典全体がプレ祭典と本祭典に分けられるようになることである(本祭典は6月下旬から7月初旬に開催)。第2回までは18歳以上の男性正会員だけの出場であった。第3回で男子青年会員(14歳から18歳)、第4回で女性正会員の演技が始められ、少年少女会員(6歳から14歳)および女子青年会員の演技が採用された第5回祭典で青少年会員のためのプレ祭典が開催されるようになる。スキー競技の導入にともなう第8回祭典以降の冬季祭典もプレ祭典のひとつである。
第2に、体操競技の公開化にともなって第1回祭典から続けられていた器械体操の演技が消滅する。器械体操の演技は異なる器械を用いて班ごとに実演するものから、例えば数十台の鞍馬でいっせいに同一の演技を行なう集団器械体操の演技へと変わっていくが、それも第7回祭典までのことであった。第8回祭典ではわずかに女性会員の演技が行なわれるが、これを最後に祭典から器械体操の演技がなくなる。
第3に、スポーツ施設の拡充にともなって祭典主会場で実施されていた体操競技や陸上競技、球技などの競技が別会場で行なわれるようになり、その結果、本祭典中に主会場で実施される演技がマスゲームだけとなる。これは1930年代のことで、32年の第9回祭典の時点ではストラホフ・スタジアムに隣接した400メートル・トラックのあるスポーツ競技場(現在のエヴジェン・ロシツキー競技場、30年代には初代大統領の名をとってマサリク競技場と通称された)と雨天体操場のある軍隊競技場が利用できるようになり、これ以降、祭典主会場であるストラホフ・スタジアムでは競技が行なわれなくなる。ただし30年代まではマスゲームの演技以外に乗馬の演技も実施されていたので、純粋にマスゲームだけが行なわれるようになるのは第2次大戦後のことである。
以上のように、体操祭として始まったソコル祭典はマスゲームを中心にした総合的なスポーツ祭典へと変容していったのである。なお、ここまでマスゲームという言葉は集団徒手体操、(棒、こん棒、輪などを用いた)集団手具体操、(主に女性会員の演技である)輪舞の総称として用いている。集団手具体操は第3回祭典以降、輪舞は第4回祭典以降実施されている。
ところで、1928年のアムステルダム五輪の陸上800メートル走で2位となり、日本の女子選手で初のメダリストとなった人見絹枝(1907~31年)が、30年にプラハで開催された第3回世界女性競技大会でも活躍したことはよく知られていることだろう。その会場は図2のソコル祭典会場と同じレトナー(プラハ旧市街の北方、ヴルタヴァ川の対岸の丘の上)であった。絹枝が亡くなった翌年には、彼女のプラハでの活躍と早すぎる死を悼んで、大会組織委員会の人びとの手によってプラハ市内のオルシャニ墓地の壁に絹枝の記念碑(プレート)がかかげられた。この墓地にはソコル運動の創始者ティルシュの墓もある。
3.4つの祭典の特徴
第2次大戦以前の4つの祭典を比較しながらそれぞれの特徴についてみていきたい。
まずは4つの祭典のプログラムに見られる共通性について。パレードやコンサートなどの文化行事と祭典会場でのマスゲームが主な構成要素であることはどの祭典にも共通している。もう少し具体的に見てみると、ソコル祭典が他の3つの祭典のモデルになっていたことが明らかとなる。表4はソコル祭典以外の3つの祭典の出場者数と開催時の協会数および会員数を示したものである。この表の出場者にはどの祭典に関しても男女正会員、男女青年会員、少年少女会員が含まれており、年齢の区分はいずれもソコルと同じである。またどの祭典においてもプレ祭典として「青少年の日」が設けられており、プレ祭典と本祭典を分割した第5回ソコル祭典以降の開催方法が採用されている。さらにソコル祭典では第5回祭典以降、プログラムに祭典シーン(広いグラウンドを使って大人数で演じられる演劇のこと)が採り入れられているが、確認できない第1回オレル祭典を除くと表4のすべての祭典でこの祭典シーンが行なわれている。
競技に関しては多少事情が異なるが、ソコル祭典における競技の変遷とほぼ同様の傾向が見られる。21年の労働者オリンピアードとスパルタキアードでは競技は行なわれていない。22年の第1回オレル祭典では、陸上競技や重競技の種目を含む体操競技と8種目総合で得点制の陸上競技が実施されただけであったが、29年の第2回オレル祭典では体操競技と陸上競技の他にハンドボールとバレーボールが採用されている。第2回労働者オリンピアードでは、競技の無かった前回とはうって変わって、体操競技、陸上競技、水泳、ハンドボール、バレーボール、サッカー、自転車、レスリング、重量挙げ、スキーの10種目が実施され、第3回労働者オリンピアードではさらに卓球、アイスホッケー、フィギュアスケートが追加されて、13種目の競技が実施されている。
本祭典の主会場でのプログラムの中で、それぞれの祭典の特徴が最もきわだっていたのは少し前に触れた祭典シーンである。絵画にたとえるならばマスゲームや競技が抽象画であるのに対して祭典シーンは具象であり、祭典を主催する組織の思想が如実にあらわれる。詳しい内容はわからないものが多いが、タイトルだけでも違いがわかるものもある。祭典ごとにタイトルを記すと、ソコルの第5回祭典「チェス競技」(470人)、第6回祭典「マラトン」(1292人)、第7回祭典「自由の像の建立」(3616人)、第8回祭典「わが祖国はいずこ」、第9回祭典「ティルシュの夢」(5000人)、第10回祭典「建設と防衛」、第2回オレル祭典「チェコの3つの時代」、労働者オリンピアードの第1回「新時代の夜明けに」、第2回「労働でもって自由のために」、第3回「解放された労働(労働者と機械)」、第1回スパルタキアード「革命の勝利」(2000人)となっている。( )内は出演者の人数である。
大別するとソコルとオレルの祭典シーンが歴史物語であるのに対して、労働者オリンピアードとスパルタキアードは現代ものである。ソコルの第6回と第9回の祭典シーンは古代ギリシアの、第5回、第7回、第8回はチェコ国民史の物語である。第7回の「自由の像の建立」はボヘミア、モラヴィア、スロヴァキア、シレジアの人びとが協力して大きな岩を積んで自由の像を建てるのがあらすじで、建国の物語と言って良い。国歌と同じタイトルの第8回の「わが祖国はいずこ」はいくつかのシーンの写真を見ると、画家アルフォンス・ミューシャの「スラヴ叙事詩」を彷彿させるもので、「チェコスロヴァキア人」とその他のスラヴ人の祖国愛を表現したものと解説されている。ちなみにミューシャは第6回と第8回のソコル祭典のポスターを描いている。
後回しにした第5回の「チェス競技」はオレルの「チェコの3つの時代」と比べると両者の違いが鮮明となる。「チェコの3つの時代」は9世紀のキュリロスとメトディオスのモラヴィアへの到来(キリスト教の異教との戦い)と10世紀のヴァーツラフ国王によるキリスト教の普及を中心にしたローマ・カトリック受容の物語である。これに対して「チェス競技」は、フス派の将軍ジシュカの軍勢が神聖ローマ皇帝でありボヘミア王でもあったジギスムントの軍隊を打ち破る1422年の戦いをチェスであらわしたもので、ローマ教会の教権主義に対する抵抗の物語である。なお、1938年の第10回ソコル祭典の「建設と防衛」は主会場のストラホフ・スタジアムではなく、隣のマサリク競技場に舞台を特設して夜に上演された。会場、舞台、上演時間のいずれも新しい試みであったが、これがソコル祭典における最後の祭典シーンとなった。内容は、建国20周年にちなんで、1919年のハンガリー軍の侵入に対するスロヴァキア防衛の戦い(ソコルは実際にこの戦いに会員を動員した)を描いて、祖国防衛のための国民の団結を示すものであった。しかし、祭典の2か月後にはミュンヘン協定によってズデーテン地方がドイツに割譲され、翌年の3月にはチェコがドイツの保護領となる。
スパルタキアードの祭典シーンが革命を標榜しているのに対して、第1回労働者オリンピアードの「新時代の夜明けに」はラストシーンでマサリク大統領の大きな胸像を建て、建国の際の彼の功績を讃えている。経済恐慌によって失業者が増大した時期に演じられた第3回労働者オリンピアードの祭典シーンは、カレル・チャペックの戯曲「ロボット」のパロディーだったのであろうか。機械化・合理化が進んで工場にロボットが導入され、失業した労働者たちは飢えと貧困に苦しんだ結果、工場から資本家を追い出し、ロボットを破壊しようとする。ロボットは「私はあなた方と同じ労働者です」と言い、これを理解した労働者たちがロボットと協力することで新たな労働、解放された労働がもたらされるというストーリーである。最後に労働者たちが「共和国、民主主義、社会主義に忠実、忠実、忠実」とさけんで幕が閉じられた。
祭典にあらわれたもうひとつの特徴は国際交流である。祭典の主催団体はそれぞれ異なる国際組織に加盟しており、祭典のプログラムにも国際競技会が組み込まれている。ソコルはヨーロッパ体操連盟(FEG)とスラヴ・ソコル同盟(SSS)に加盟し、1907年の祭典中に第3回FEG選手権が、12年と32年の祭典中にSSS選手権が行なわれている。さらに38年の祭典では国際体操連盟(FEGの後継組織)の第11回選手権も開催されている。オレルは国際カトリック体育協会連合(UIOCEP)に加盟しており、22年と29年の祭典でUIOCEPの第3回と第5回の競技会が実施されている。労働者体操協会連合は社会主義労働者スポーツインターナショナル(SASI)、労働者体操協会連盟は赤色スポーツインターナショナル(RSI)にそれぞれ加盟していた。労働者体操協会連合の労働者オリンピアードでも、SASI主催の競技ではないが、SASI加盟組織が出場した国際的な競技が実施されている。なお、労働者オリンピアードとスパルタキアードという祭典の名称はSASIおよびRSIでも採用され、SASIの国際労働者オリンピアードは25年(フランクフルト)と31年(ウィーン)、37年(アントワープ)に、RSIの国際スパルタキアードは28年(モスクワ)と31年(ベルリン)に開催されている。
こうした祭典の際の国際競技への参加国(具体的にはそれぞれの国際組織の加盟団体)を比べると、おおよそ次のような特徴が見えてくる。第1に、ドイツおよびオーストリアはオレル祭典にも労働者オリンピアードにも参加しているのに対して、ソコル祭典にはいっさい参加していない。この点にナショナリズムを基調としたソコルの特徴があらわれていると言えよう。第2に、第1点とも関連することであるが、ソコルが西側の国々で交流に最も力を入れたのはフランスであった。フランスは、競技が行なわれていない第1回スパルタキアードを含めて4つの祭典の全てに参加している。第3に、ポーランドはソコル祭典、オレル祭典、労働者オリンピアードの3つの祭典に参加しているが、スラヴ民族の団結を目指したはずのSSSの選手権が実施された1912年のソコル祭典には、参加を拒否している。これはこの時期のチェコ・ソコルがポーランド人と対立しているロシアとの関係を重視する方向に方針を転換したことが原因であった。最後に、最も多くの国が参加したのは、21か国が競技に出場している労働者オリンピアードであった。
4.戦後のソコル祭典とスパルタキアード
共産党の支配体制が始まる1948年と体制転換の89年は、チェコのスポーツ史をも画する年となった。48年の第11回ソコル祭典の冬季祭典開催中に「2月事件」(共産党は「勝利の2月」と呼び、批判勢力は「2月クーデター」と呼んだ)が起きて閣僚の大半を共産党員が占めることとなり、本祭典開催直前の6月には共産党のゴットヴァルトが大統領に就任する(ゴットヴァルトはチェコスロヴァキアの小スターリンと呼ばれる人物である。21年のスパルタキアードに参加、22年から24年まで労働者体操協会連盟のスロヴァキア地区機関誌『スパルタクス』の編集長を務めている)。そして、ソコル祭典終了後には結社の自由にもとづいた、ソコル、オレル、労働者体操協会、その他のスポーツ組織が併存するこれまでの在り方が否定され、全てのスポーツ組織がソコル連盟に統合されることとなった。こうして一元的なスポーツ体制がつくられていくのであるが、その間の48年11月までに「ソコルの浄化」が遂行されて、1万1446人の会員が除名され、1556人の役員が役職を剥奪された。その後53年にソコル連盟は「任意スポーツ組織ソコル」と名称が変更され、さらにこれにかわって57年にはチェコスロヴァキア体育同盟が創設され、「社会主義スポーツ体制」が確立する。こうした中で「ソ連による解放」10周年を記念して開催されたのが55年の第1回全国スパルタキアードであった。
表5は数値のわかる第1回から第3回までと第6回のスパルタキアードに関するもので、ストラホフ・スタジアムでマスゲームが行なわれた日数、マスゲームの作品数と演技者数、観客数に加えてパレード参加者数およびプレ祭典として実施された各種スポーツ競技への出場者数を示している。数値にみる最大の特徴は、体操団体だけでなくスポーツ組織も統合されて全国規模の総合的なスポーツ祭典となったために競技への出場者数が劇的に増加していることである。しかし、本祭典のストラホフ・スタジアムで実施されたのはマスゲームだけであり、こうした祭典の全体像を比べてみると、戦後のスパルタキアードはマスゲームを中心にした総合的なスポーツ祭典となっていた30年代のソコル祭典を継承したものといえそうである。なお、スパルタキアードのマスゲームは集団徒手体操、集団手具体操、輪舞に加えて、親子体操やアクロバティックな動きを採り入れた組体操など多彩になっていく。
89年末の体制転換後、90年春には法改正によって、結社の自由に基づいた多様なスポーツ組織のあり方が認められ、それと同時に、48年に国に接収されていた施設等の財産が返還されることとなった。ソコル、オレル、労働者体操協会が再建され、カレル大学体育・スポーツ学部として利用されていた「ティルシュの家」も元どおりソコル連盟の本部となった。こうしてソコル祭典も再開され、94年に第12回祭典が開催された。本祭典は2日間でストラホフ・スタジアムでのプログラムはマスゲームだけであった。プレ祭典のスポーツ競技は29種目と多いが、出場者は1万3000人とわずかである。規模が大幅に縮小されたとはいえ、祭典の大枠はやはりマスゲームを中心にした総合的なスポーツ祭典であった。ソコル祭典はその後も両大戦間期と同様、6年ごとに開催されている。
ところで、体制転換後に書かれたソコル史では、共産党の支配体制に対する批判から会員のソコルからの除名や幹部会員の国外への亡命に言及しつつ、ソコル祭典とスパルタキアードの関係については全くの別のものとして扱うのが通例であった。再開されたソコル祭典もあくまでも46年ぶりの「復活」であり、スパルタキアードとは別物として描かれてきた。しかしながら、ソコル祭典にとってもスパルタキアードにとっても重要な出し物であったマスゲームの考案者に注目してみるとふたつの祭典の間の連続面が浮かびあがってくる。
1948年のソコル祭典については情報が得られないので、38年のソコル祭典と55年のスパルタキアードのマスゲームの考案者を比べてみると、55年の29のマスゲームのうちの7つが38年のマスゲーム考案者によって創作されたものであることがわかる。その内のひとりのエヴジェン・ペニンゲルは、48年の統合以前のソコル連盟の男性体操指導者長(会長につぐ幹部ポスト)であった。同様に85年のスパルタキアードと94年のソコル祭典のマスゲーム考案者を比べると、94年の12のマスゲームのうちの半数にあたる6つが85年のマスゲーム考案者によって作られている。そのひとりのヤリナ・ジトナーは94年の祭典の際のソコル連盟の女性体操指導者長である。マスゲームの考案者はたんに作品を創作するだけでなく上演にいたる実地指導の総責任者もかねており、祭典の計画と実行に際して重要な役割をになった人びとである。こうした人びとによってソコル祭典からスパルタキアードへ、そしてまたスパルタキアードからソコル祭典へとマスゲームに関する知識と経験が継承されてきたのである。
最近では、こうしたソコル祭典とスパルタキアードの連続面に着目する研究や、社会主義体制下のスパルタキアードがたんに国民統合の装置であっただけでなく国民の祝祭でもあったとする研究もあらわれており、チェコのスポーツ史を捉える視点の多様化が進みつつある。
最後にオリンピックなど国際的に活躍したスポーツ選手を紹介しておこう。ここでは2016年から18年の春までに伝記が出版された4人をとりあげる。その内のふたりは日本でもおなじみのエミル・ザートペック(1922~2000年)とヴェラ・チャースラフスカー(1942~2016年)である。ザートペックはオリンピックの陸上長距離で4つの金メダルを、チャースラフスカーは体操で7つの金メダルを獲得している。後のふたりはヤン・ガイドシュ(1903~45年)とアロイス・フデッツ(1908~97年)である。ふたりともソコル会員で、1936年のベルリン五輪の体操競技に出場している。フデッツはベルリン大会の吊り輪で優勝し、34年と38年の世界選手権でも吊り輪で優勝しており、「吊り輪の王者」であった。彼の演技はリーフェンシュタールの映画「オリンピア」に1分以上にわたって収められている。ガイドシュは28年のアムステルダム五輪の団体で銀メダルを獲得した他、38年の世界選手権の個人総合で優勝するなど20年代後半から30年代にかけて活躍した。ガイドシュはナチスの占領中にソコルの抵抗組織「インドラ」に加わり、44年にゲシュタボに逮捕され、終戦後の45年11月に強制収容所で亡くなった。