〈7章ユーゴスラヴィアへ〉 〈目次に戻る〉 〈9章アメリカへ〉
はじめに
ロシアにおけるスポーツの起源は、古代や中世の文化にまでさかのぼることができる。ロシア人の祖とされる古代スラヴ人は馬で移動し、またボートや帆船を操っていたが、そのような文化の土壌の上に、競馬や馬術、ボート競技やセーリング競技が導入されたわけである。
中世ロシアの貴族は戦士に必要な技量を養うため、レスリングや拳闘や弓を修練していた。スキーも移動手段として習得しておく必要があった。ロシアのもっとも古い年代記である12世紀の『過ぎし年月の物語』にも、拳闘についての記述がある。19世紀ロシアの詩人ミハイル・レールモントフの叙事詩「商人カラシニコフの歌」では、イヴァン雷帝の前で行なわれた拳闘の試合が描写されており、中世における拳闘のイメージを広く人びとに伝えている。
18世紀のロシアでは、ピョートル大帝が西欧を範とした近代化を進めた。その動きの中で、貴族はフェンシングに取り組むようになり、また新しく誕生した学校では体育の授業が実施された。
一方、民衆の間には冬の終わりの祭「マスレニツァ」で、集団で「殴り合い」をする伝統があった。ラプタ、ゴロトキ、バプキ、スヴァイカ、ゴレルキといった遊戯も行なわれていた。
ラプタは野球に似た遊戯で、2チームに分かれて戦う。陣地にいる攻撃のチームはバットでボールを遠くに飛ばし、指定されたラインと陣地の間を走って往復する。守備のチームはボールを処理し、ボールを持った者が走者にタッチすることで、走者の移動を止める。
ゴロトキはボウリングに似ている。様々な形に並べられた複数の棒に、プレーヤーが離れた場所から棒をぶつける。プレーヤーはそのように棒を投げながら、並べられた棒を枠の外に全て出すことを目指す。一方、バプキでは家畜の骨で作ったブロックを、枠の中に置かれたブロックにぶつけて、枠から出そうとする。スヴァイカでは、金属製の輪の中に釘が投げ入れられる。
ゴレルキは鬼ごっこだ。列の先頭に立ったものが鬼になり、後ろにいる者たちを追うことになる。
ラプタやゴロトキは現代ロシアでも楽しまれている。特にゴロトキは1960〜70年代にはブームになっていた。
特に冷戦期の世界において、ソ連がスポーツ大国と呼ぶにふさわしい存在であったことを否定する者はいないだろう。本章ではロシアがどのようにしてスポーツ大国となっていったのか、またソ連解体後の混乱の中で衰退の危機にあったロシアのスポーツを再生する試みがいかになされ、いかに挫折したのかを述べる。
1.帝政期までのロシア・スポーツ
イギリスやフランスなどで発達した近代スポーツがロシアで普及したのは、19世紀後半のことである。この時期、乗馬や射撃、フェンシング、体操、自転車、テニス、重量挙げ、ヨット、スケートといった競技が行なわれるようになり、サンクト=ペテルブルグやモスクワには、各種スポーツのクラブが次々と誕生した。
国際的に活躍する選手も現れた。その一人のアレクサンドル・パンシン(図1)は1889年、スピードスケート(1500メートル)で世界記録を出し、アムステルダムの世界大会でも89年、90年と連覇を飾った。
1863年にサンクト=ペテルブルグ北方のセストロレツクに生まれたパンシンは、鉄道で働いていたが、スケート競争で勝利を重ね、やがて国際大会にも出場するようになった。彼は記録を伸ばすために、ブレードを長いものに改良したという。スピードスケートの世界チャンピオンとなった後は、フィギュアスケートに転向し、新しい舞台でもロシア選手権で3連覇を飾っている。だが、妻との結婚生活が行き詰まり、1904年に自殺に追い込まれた。
19世紀のロシアにはいわゆる知識人が形成されたが、たとえばニコライ・チェルヌイシェフスキーやニコライ・ドブロリューボフ、ドミートリー・ピーサレフといった「革命的民主主義者」の知識人が心身二元論を批判し、身体の健康や鍛錬を重視していたことが、ソ連やロシアのスポーツ史の教科書ではしばしば強調されている。また、スポーツに最も積極的な関心を示した知識人と言えば、文豪レフ・トルストイであろう。彼は乗馬を好み、自転車を練習し、ダンベルで体を鍛え、家族とともに水泳やテニスを楽しんだ。人間は本来、運動や肉体労働をする生きものなのだとトルストイは主張し、身体と精神を切り離すことができないとやはり考えていた。1877年に刊行されたトルストイ『アンナ・カレーニナ』には、競馬の障害物競争やテニス、スケート遊びが描写されている。
科学者もスポーツに関心を示すようになった。1869年からカザン大学で、1884年からはペテルブルグ大学で解剖学を教授していたピョートル・レスガフトは、身体や知能の発達を考察するうちに、幼児教育や体育を重視するようになった。1886年、彼は欧米の体育学校を範として、サンクト=ペテルブルグに体育スポーツ指導者講座を開く。現在のレスガフト記念国立体育スポーツ健康大学は、この講座が発展したものだ。また、生理学者のイヴァン・セチェノフや、条件反射を発見したことで世界的に有名なイヴァン・パヴロフも、ロシアにおける身体理解やスポーツ文化に影響を与えた。
20世紀に入ると、伝説的なスポーツ・ヒーローがロシアに出現することになる。そのひとりはイヴァン・ポドドゥブヌイ(図2)だ。
ポドドゥブヌイは1871年にポルタヴァ県のボゴドゥホフカ村に生まれた(現在はウクライナ)。ロシア帝国の辺境には特別に許されて自治を行なっていた武装集団コサックがいたが、ポドドゥブヌイもこのコサックの出身である。1897年に彼はサーカスのレスラーになった。当時のロシアではレスリングはショーとして、サーカスに組み込まれていた。
ポドドゥブヌイは1903年以降、西欧各地で開催されていたグレコ・ローマンスタイルのレスリング大会に参加するようになる。1905年にはパリの大会で世界チャンピオンとなり、その後も1909年まで、優勝を重ねた。
革命後もポドドゥブヌイは、ソ連でサーカスへの出演を続けた。晩年はアゾフ海沿岸のエイシクに居住し、第2次世界大戦後の1949年にこの世を去った。死後もその伝説は人びとの記憶に残り、1957年には彼をモデルとした映画「レスラーと道化師」が、ボリス・バルネットの監督で製作されている。
20世紀初頭のレスラーとしては、ロシア帝国領だったエストニア出身のジョージ・ハッケンシュミットを忘れることもできない。主にイギリスで活躍していた彼は世界チャンピオンとして、1908年にアメリカ・チャンピオンのフランク・ゴッチとシカゴで対戦、11年にも再戦し、いずれも敗れはしたものの伝説的な選手となった。
セルゲイ・ウートチキンもまた、20世紀初頭のロシアのヒーローである。1876年に、港町として栄えたオデッサ(現在はウクライナ)の建設業者の家に生まれた彼は、19世紀末からヨーロッパの自転車レースに参戦したが、当時のロシアでは自転車の人気が高まっていたこともあり、大衆的な人気を博することとなった。
だが、ウートチキンの人生はそれにとどまらなかった。1907年からは気球や飛行機による飛行にチャレンジし、ロシア各地で飛行ショーを行なったのである。黎明期にあった飛行機を操縦することは、命がけの冒険に他ならなかった。興奮と名声に彩られたウートチキンの人生だが、一方では薬物に溺れてしまい、1915年に39歳の若さでこの世を去った。
20世紀初頭には、ロシア初の五輪金メダリストとなったニコライ・パニン(本名はニコライ・コロメンキン)、1910年から11年にかけてスピードスケートの世界チャンピオンとなったニコライ・ストルンニコフなど、スケート競技においてもロシア選手が華々しい活躍を示している。
パニンは1872年にヴォロネジ州に生まれているが、両親の別居後は首都サンクト=ペテルブルグで成長した。1901年にはフィギュアスケートの全国大会で優勝し、1903年にはサンクト=ペテルブルグの世界選手権で2位となった。この時、優勝したのはジャンプの名称にその名前を残しているスウェーデンのフィギュア・スケーター、ウルリッヒ・サルコウだった。サルコウとは5年後の1908年にサンクト=ペテルブルグで開催された国際大会でも対戦することとなったが、今度はパニンが優勝した。
同年のロンドン五輪でもサルコウとの戦いとなった。男子シングルのコンパルソリではサルコウが首位、パニンが2位となったが、採点を不服としたパニンはフリー演技を棄権した。一方、サルコウの参加していなかったスペシャルフィギュアでは、パニンが優勝した(なお、コンパルソリとは1990年代まで実施されていた氷上に図形を描く種目、スペシャルフィギュアは20世紀初頭まで実施されていたコンパルソリよりもさらに複雑な図形を描く種目である)。パニンは1912年のストックホルム五輪では射撃競技に参加し、個人8位、団体4位となった。その後は指導者として活動し、1956年にこの世を去った。
パニンが金メダルを獲得した1908年のロンドン五輪はロシア選手団が小規模ながら初めて派遣された大会で、それ以前のロシア選手は個人で参加していた。1911年になり、ようやくロシアにオリンピック委員会が組織され、その翌年のストックホルム五輪には170人という選手団が派遣された。これはロシアにとって初めての本格的な五輪参加だったが、銀メダル2、銅メダル1という期待外れの結果に終わった。1916年のベルリン大会も中止され、17年にはロシア革命が起きたため、ストックホルム五輪がロシア帝国にとって最後の五輪となった。ソヴィエト連邦が初めて五輪に参加するのは、それから40年後のことである。
2.新しい人間―社会主義国家の身体文化
1917年にロシア革命が起こり、やがて世界最初の社会主義国であるソヴィエト社会主義共和国連邦が誕生することとなった。
当時のロシアで革命は政治体制や生産システムだけにとどまるものではなく、文化全体に及ぶと考えられていた。新しい世界にふさわしい「新しい人間」が創造されなければならないと主張された。
その代表的な例としてしばしば言及されるのが、詩人であり技師でもあったアレクセイ・ガスチェフだ。革命後のソ連では集団性が重視されたが、ガスチェフは心理や肉体の均質化された「新しい人間」を夢想した。アメリカの労働管理方法であるテイラー・システムを社会主義体制に応用しようとしたガスチェフは、集団性を重視する革命後の思潮を背景に、心理や肉体の均質化された「新しい人間」が機械的かつ合理的に生産労働を行なうユートピアを夢想した。肉体や精神を改造し、超人や機械人間を生み出そうとする試みは、他にも無数に存在した。
軍事や学校教育の現場でも体育活動が重視されたが、一方で従来のスポーツ文化は批判にさらされた。たとえば、保健人民委員セマシュコや体育研究所長ジグムンドといった衛生学者たちは、サッカーや陸上競技、ボクシングを不合理で危険なものとみなし、禁止しようとしたのである。また、プロレトクリト(プロレタリア文化協会)の左翼知識人たちは、サッカーなどの競技をブルジョア的な古い営みとみなし、批判した。こうした過激な動きは最終的に、革命後のソ連を支配したボリシェヴィキの政治家たちによって止められることとなった。
ソ連におけるスポーツ文化の特色は、パレードのような「見せる文化」が発展したことである。パレードにおいては、スローガンを記した横断幕や旗、政治指導者の肖像画を掲げたスポーツマンたちが列を組んで行進したり、マスゲームを演技したりした。こうしたパレードは1919年以来、モスクワの中心にある「赤の広場」などで繰り返され、有名な写真家アレクサンドル・ロトチェンコもまた、それらを撮影した作品をいくつも残している。
ストックホルム大会以降のオリンピックにソ連は参加しなかったが、その代わりに社会主義者のスポーツ大会としてスパルタキアード大会が開催されるようになった。やはり、競技だけでなく大規模なパレードをともなうものだった。スパルタキアードの名称は古代ローマで奴隷反乱を起こした剣闘士、スパルタクスにちなんでいる。ロシア語ではオリンピックは「オリンピアーダ」、スパルタキアードは「スパルタキアーダ」と語尾が同じ音になるが、神々の祭典である貴族的なオリンピックに対して、スパルタキアードは奴隷、すなわち社会主義国家の主である労働者階級の祭典とみなされていた。
初めての大規模なスパルタキアード大会は、1928年にモスクワで開催された全連邦スパルタキアードである。ちょうどスターリンによる5ヶ年計画が開始された時期であり、この大会も計画経済の誕生を記念するものだった。ソ連以外にも17か国からの参加があり、21の競技が実施された。1952年にソ連がオリンピックに復帰してからも、スパルタキアード大会は開催され続けた。1956年にはソ連諸民族スパルタキアード大会という名称となり、59年からは4年に1度、オリンピックの前年に開催されるようになった。オリンピックの前哨戦として位置づけられたのだ。
スターリン時代のソ連のスポーツで忘れてはならないもうひとつの事柄は、GTO(図3)である。これは「労働と防衛の備え」(Gotov k trudu i oborone) の略で、1931年に導入された体力測定だ。
この名称は当時のソ連におけるスポーツ観が、労働や国防と結びついた国家主義的なものであったことを、よく示している。設定された種目にも短距離走や中距離走、高跳び、幅跳び、懸垂といった基礎体力を測定するものだけでなく、水泳や自転車やボートやクロスカントリースキー、手榴弾投げ、「32キログラムの実包箱を担いだ50メートルの歩行」、「ガスマスクを付けての1キロメートルの騎馬」といった兵役を意識したものがいくつも含まれていた。それぞれの種目には年齢に応じた基準が設定されていて、その基準に達して合格した者には金銀銅のメダルが授与された。1937年にはGTOの合格者のうち、自らの専門とする競技それぞれの基準を満たした選手に対して「スポーツ・マスター」の称号が与えられることとなった。
柔道に影響を受けた護身術サンボが形成されたのも、1920年代から30年代にかけてのスポーツが軍事と近接していた時代においてである。また、当時、活躍したボクサーとして、ソ連のヘビー級チャンピオンだったニコライ・コロリョフの名を挙げることができる。競泳ではレオニード・メシコフやセミョーン・ボイチェンコが好記録を出し、ソ連の水泳の基礎を築いた。
軍事的な色彩の強かったソ連初期のスポーツだが、それは質実剛健なものというよりは、社会における華やかな存在であり続けた。パレードが繰り返され、アレクサンドル・デイネカのようなスポーツ画家やレフ・カッシーリのようなスポーツ作家も出現し、スポーツを主題としたポスターが町を彩った。
新体操という華麗な競技が発展したのも、1940年代のソ連においてである。最初のソ連選手権大会が開催されたのは1948年のことだった。新体操が国際的な競技となってからも、ソ連選手の活躍は目立った。1963年にブタペストで開催された最初の世界新体操選手権で優勝したのは、リュドミラ・サヴィンコヴァだった。1967年のコペンハーゲン大会では団体の部が導入され、ソ連チームが最初のチャンピオンとなった。個人の部でも、エレーナ・カルプヒナが優勝した。1973年のロッテルダム大会では、ガリーナ・シュグロヴァがブルガリアのマリア・ギコヴァと同点優勝を成し遂げた。1977年のバーゼル大会、79年のロンドン大会ではイリーナ・デリュギナが2連覇している。
新体操は1984年のロサンゼルス五輪で五輪種目に採用され、知名度を高めた。オリンピックでは、ソ連がボイコットしたロサンゼルス大会を除き、個人優勝したのはすべてロシア、ウクライナ、ベラルーシといった旧ソ連圏の選手である。1996年のアトランタ大会から導入された団体の部でも、2000年のシドニー大会から2016年のリオ・デ・ジャネイロ大会まで、ロシア・チームは5連覇している。
3.サッカーとアイスホッケー―「見るスポーツ」の発展
パレードやスパルタキアード大会などが実施されたソ連だが、「見るスポーツ」として最も人気を集めたのは、サッカーとアイスホッケーだった。
ロシアにサッカーをもたらしたのはイギリス人だ。1879年にはロシア在住のイギリス人たちにより、ロシア初のサッカーの試合がサンクト=ペテルブルグで開催された。名門クラブ「ディナモ」の母体となったのはオレホヴォ=ズエヴォのチームだが、このチームを1887年に作ったのもやはりイギリス人のチャーノック兄弟だった。彼らは自らが働いていたモロゾフ家の工場の労働者を中心としたサッカー・チームを作り、1910年から始まったモスクワ・リーグで4連覇を飾った。
20世紀に入ると、ハリコフ、キエフ、オデッサなどウクライナの大都市でもサッカーがプレーされるようになり、1912年にはロシア選手権が開催された。
サッカーは、ソ連期に大きく発展することになった。1920年代には軍のチームであったCDKA(現在のCSKA)や、治安機関のチームのディナモ、鉄道のチームのロコモティフなどが次々と組織された。大衆的な人気も獲得し、サッカー・ウェアが当時の女性の流行ファッションとなった。
1936年からはソヴィエト連邦リーグが毎年開催されるようになった。1930年代後半のソ連は、スターリンによる大量抑圧(大粛清)の暗い時代として知られているが、ミュージカルとともにそんな社会に希望を与えたのがサッカーだった。作曲家のドミートリー・ショスタコーヴィチ、モスクワ芸術座の俳優ミハイル・ヤンシン、作家のユーリー・オレーシャら、当時のソ連を代表する文化人がサッカー観戦に熱中していたことも、伝説として語り継がれている。
この頃のソ連で人気を二分したチームはモスクワのディナモとスパルタークであり、ソ連選手権の優勝回数でも互角の争いを演じていた。ディナモがFSBやKGBの前身である治安機関OGPUのチームであり、他のチームも軍事や産業組織を母体としていた一方、スパルタークはファンだけに支えられたクラブ・チームという例外的な存在で、それゆえ市民の人気も高いものがあった。
1936年の体育パレードでは「赤の広場」でスターリンの見守る中、サッカーの試合も行なわれた。この歴史的なイべントで主役を演じたのもスパルタークで、つまり、試合はこのチームの紅白戦だったのである。翌1937年には内戦中のスペインからバスク・チームがソ連を訪れ、各地のチームと親善試合を行なった。相手に自由な攻撃を許してしまったソ連のチームは敗戦を重ねたが、ディフェンスを重視することで全8戦中、唯一の勝利を奪ったのもまた、スパルタークだった。
このように数々の伝説を作り上げたスパルターク・モスクワを創設したのはニコライ・スタロスチンだ。その弟のアレクサンドル、アンドレイ、ピョートルも含め、4人兄弟全員がスパルタークでプレーをしていた。
観衆を魅了したスタロスチン兄弟も、第2次世界大戦が始まると、スターリンの恐怖政治の犠牲となってしまう。ニコライ、アレクサンドル、アンドレイは逮捕され、シベリアの強制収容所に送られた。収容所でも彼らはサッカーを続け、収容所のチームの指導を行なった。自由の身になったのはスターリンの死後である。社会復帰した兄弟たちは、それぞれサッカー界の要職に就いた。
第2次大戦後の1946年から51年にかけてはCDKAの黄金期で、6回のソ連リーグのうち5回で優勝している。また、1960年代後半以降はディナモ・キエフが優勝を重ねることになり、特にヴァレリー・ロバノフスキー監督は名将として知られている。
一方、ディナモ・モスクワやスパルターク・モスクワも強豪であり続けた。ディナモ・モスクワは1945年にイギリス遠征を行ない、カーディフ・シティやアーセナルに勝利している。それに続く時期のディナモ・モスクワの名ゴールキーパーとして活躍したのが、レフ・ヤシン(図4)だ。
1929年にモスクワで生まれたヤシンは18歳の時に才能を見出され、ディナモ・モスクワの選手となる。1953年にチームの正ゴールキーパーとなると、ソ連リーグで5度優勝し、さらにはソ連代表チームのゴールキーパーとして56年のメルボルン五輪、そして60年の欧州選手権で優勝、66年のワールドカップで4位と輝かしい成績を収めた。黒いシャツを着て黒い手袋を付けた、腕の長い彼の姿は「黒蜘蛛」とあだ名され、世界のサッカー史上最高のゴールキーパーとしてサッカー・ファンに語り継がれることとなった。FIFAワールドカップで最優秀のゴールキーパーに与えられる賞は「ヤシン賞」と呼ばれている。
ヤシンが去った後のサッカー・ロシア代表チームだが、1988年のソウル五輪ではアルゼンチン、イタリア、ブラジルといった伝統国を下して、優勝を飾っている。また、フース・ヒディング監督に率いられたユーロ2008ではオランダを下しベスト4に食い込んだ。2018年にロシアで開催されたワールドカップでは、スペインを下してベスト8に進出した。
国内リーグだが、ソ連解体後の、90年代のロシア・リーグ(2002年以降はプレミアリーグ)では、名将オレグ・ロマンツェフ監督に率いられたスパルターク・モスクワが優勝を重ねた。
ロシアではサッカーと並んで人気が高いアイスホッケーだが、普及した時期はサッカーよりも遅い第2次世界大戦後である。1946年に始まったソ連リーグがその普及の原動力となった。ソ連リーグで強豪だったのはCSKAで、45年の歴史のうち31回優勝している。
アイスホッケーのソ連代表チームも世界に名をとどろかせた。1956年から88年までの計9回のオリンピックで7度の優勝、1954年から91年までの38年間で世界選手権を19回制覇と、北米のプロチームを除けば、まさに世界最強のチームだったのである。
そんなソ連チームがカナダのプロ選手と対戦することになったのが、1972年のスーパーシリーズだ。プロがアマチュアに負けるわけがないと考えたカナダ選手たちは、ヘルメットを着けないむき出しの頭で試合に臨んだ。だが、7対3で初戦を制したのはソ連チームだった。全8戦が行なわれたシリーズは結局、カナダの勝利(4勝3敗1引き分け)で幕を閉じるのだが、記念すべき初戦の勝利はロシアのスポーツ史の中で今も燦然と輝いている。
このスーパーシリーズでソ連チームのヘッドコーチを務めたフセヴォロド・ボブロフは、1940〜50年代のソ連ホッケーを代表する選手だった。彼はそもそもサッカー選手として活躍していたのだが、やがてアイスホッケーもプレーするようになり、国内リーグで6度優勝し、また1956年のコルチナ・ダンペッツォ五輪では金メダルを獲得した。
ボブロフの所属していた強豪CSKAのヘッドコーチを1940年代から4半世紀以上も務めていたのが、「ロシア・ホッケーの父」と呼ばれるアナトリー・タラソフである。タラソフはソ連代表チームのヘッドコーチも務めており、64年のインスブルック五輪から72年の札幌五輪までオリンピックで3連覇している。この時期の代表チームには、アレクサンドル・ラグリンやヴャチェスラフ・スタルシノフといった名選手がいた。
1972年の札幌五輪から84年のサラエヴォ五輪まで、カナダとのスーパーシリーズも含めてソ連代表チームのゴールキーパーを務め、オリンピックで3度優勝したのがヴラジスラフ・トレチャクだ。同じく札幌五輪やスーパーシリーズ、その4年後のインスブルック五輪で活躍した選手として、ヴァレリー・ハルラモフを忘れることもできない。ヴラジーミル・ペトロフ、ボリス・ミハイロフとともに「黄金のトロイカ」と呼ばれたハルラモフは、カナダとのスーパーシリーズ初戦で2得点し、世界を驚嘆させた。
4.冷戦期のオリンピック
第2次世界大戦後の冷戦期、オリンピックを舞台とした米ソのメダル争いは世界の注目の的であった。スポーツは核兵器開発や宇宙飛行と並ぶ、米ソの競争の主要な舞台となった。1952年のヘルシンキ五輪から1976年のモントリオール五輪までの7つの夏季大会において、メダル獲得数の首位と2位を占めたのは常にアメリカとソ連で、うち5大会においてソ連がメダル獲得数の首位の座を得た。ソ連にとってのスポーツは社会主義体制の優位性を国際社会に示す場であり、また同時に国民の意識を統合するための装置にもなった。
ソ連がオリンピックに参加するようになったのはスターリンの晩年、1952年のヘルシンキ大会からである。第2次世界大戦後から徐々に、レスリングやボクシング、バスケットボールやバレーボールなどの競技で、ソ連の選手が国際大会に出場するようになっていたが、1946年にはグリゴリー・ノヴァクが重量挙げの世界選手権で金メダルを獲得した。1947年には男子バスケットボールのソ連代表チームがヨーロッパ・チャンピオンとなった。
バレーボールは1920年代にはすでに、ソ連のポピュラーなスポーツとなっていた。1949年にはチェコスロヴァキアで開催された男子バレーボールの世界選手権で、ソ連代表チームが優勝した。52年には世界選手権がソ連で開催され、男女ともソ連が優勝した。
第2次世界大戦後は東西冷戦の時代と理解されているが、実のところ、欧米社会とソ連のへだたりは戦前の方が大きかった。世界初の社会主義国だったソ連は、そもそもその出発点において国際社会から拒絶されていたのである。逆説的だが、東西冷戦構造とはソ連が国際社会で重要な位置を占めるようになったことを意味するものであり、実力を増したソ連のスポーツ選手が国際大会に復帰するというのは自然な流れであった。
五輪に復帰したヘルシンキ大会でソ連はアメリカに次ぐ数のメダルを獲得し、1956年のコルチナ・ダンペッツォ冬季大会では国別のトップのメダル数を獲得した。同年夏季のメルボルン五輪ではヴラジーミル・クーツが5000メートル走、1万メートル走の2種目を制覇し、サッカーでは強豪西ドイツやユーゴスラヴィアを破って優勝を飾るなど、やはり国別で最多となるメダルを獲得した。
1953年にスターリンがこの世を去った後、フルシチョフ政権下のソ連では「雪どけ」と呼ばれる自由な空気が社会を覆い、60年代人と呼ばれる若い文化人が活躍していた。そのような新しい社会で注目を集めたのが宇宙開発とスポーツだった。若手詩人エヴゲニー・エフトゥシェンコや小説家ユーリー・トリーフォノフはスポーツ誌のライターを務めていた。アイスホッケーやフィギュアスケートといった人気スポーツは劇映画の題材にもなり、また、テレビの普及はスポーツ・ヒーローの姿を社会的な記憶にとどめることに貢献した。
1960年のスコーヴァレー冬季五輪、ローマ夏季五輪、1964年のインスブルック冬季五輪、東京夏季五輪でもソ連はメダル獲得数の世界一の座を保った。インスブルック五輪のペアスケーティングで優勝したリュドミーラ・ベロウソヴァ、オレグ・プロトポポフ組は、続くグルノーブル五輪でも連覇した。ベリーロールでの世界記録2メートル28を1963年に樹立したヴァレリー・ブルメリ(図5)は、東京五輪でも優勝を飾った。
1960~70年代の五輪ではラリーサ・ラトゥイニナ、ポリーナ・アスターホヴァ、ナターリヤ・クチンスカヤ、リュドミラ・トゥリシェヴァ、オリガ・コルブトら、女子体操選手の活躍も注目を集めた。ラトゥイニナはメルボルン、ローマ、東京の団体と個人床演技で3連覇し、66年から77年まではソ連女子チームのコーチを務めた。トゥリシェヴァはミュンヘンで個人優勝しただけでなく、団体ではメキシコシティー、ミュンヘン、モントリオールと3連覇を飾った。
東京、メキシコシティーを連覇した重量挙げのレオニード・ジャボチンスキー、ボクシングのボリス・ラグチン、東京からミュンヘンまで3連覇したレスリングのアレクサンドル・メドヴェーチもこの時代を代表する選手である。
1972年の札幌冬季五輪ではヴャチェスラフ・ヴェデニンやカリーナ・クラコヴァといったクロスカントリースキー選手の活躍が目立ち、ソ連はメダル首位の座を奪い返した。
ミュンヘン五輪では米ソで争われた男子バスケットボール決勝で、この競技の歴史に残るドラマが生まれた。アメリカが優勝を決めたかに思われたが、審判団はプレー時間を3秒追加する。このわずかな時間で長いフリースローを受けたアレクサンドル・ベローフがシュートを決め、ソ連チームが逆転に成功した。この大会では陸上競技の短距離走でもヴァレリー・ボルゾフがアメリカ勢を抑え、100メートル走、200メートル走の二冠に輝いた。
1976年のインスブルック冬季五輪、モントリオール夏季五輪、1980年のレークプラシッド冬季五輪でも、ソ連はメダル獲得数の首位に輝いた。陸上・三段跳びのヴィクトル・サネーエフは、メキシコシティー、ミュンヘン、モントリオールと3連覇を果たした。札幌五輪のペアスケーティングで金メダルを取ったイリーナ・ロドニナ(図7)は、パートナーのアレクセイ・ウラノフがライヴァルのリュドミラ・スミルノヴァと恋に落ちるというスキャンダルに見舞われたものの、新たなパートナーのアレクサンドル・ザイツェフと共にインスブルック、レークプラシッドを連覇した。
こうしてソ連選手が活躍を続ける中、「スポーツと政治」の問題に揺れた1980年のモスクワ夏季五輪(図8)を迎えることとなる。
これは社会主義国で初めて開催されたオリンピックだが、前年の12月にソ連軍がアフガニスタンに侵攻、それに反対するアメリカが大会のボイコットを呼びかける事態となった。結局、日本、中国、韓国、西ドイツ、トルコ、イランなど50か国がボイコットに同調し、参加国は81にとどまった。ボイコットの中心となったのはアジアやアメリカ大陸の国々で、ヨーロッパのほとんどの国の選手は参加することができた。アメリカのいない五輪で、ソ連のスポーツ選手はその強さを十分に発揮した。
五輪開催にあたっては、シェレメチェヴォ国際空港の新ターミナルや「イズマイロヴォ」、「コスモス」といった大型ホテルなど都市インフラが整備され、その後のモスクワ発展の基礎となった。オリンピック・スタジアムをはじめとする競技施設の多くも、現在にいたるまで市民に利用されている。
ソ連は1984年のロサンゼルス夏季五輪をモスクワ五輪の報復のためにボイコットしたが、同年のサラエヴォ冬季五輪ではどの国よりも多いメダルを獲得した。4年後のカルガリー冬季五輪においても、またモスクワ五輪をボイコットした強豪国と12年ぶりに対戦することとなったソウル夏季五輪においても同様だった。カルガリー五輪ではクロスカントリースキーのタマーラ・チーホノヴァやアレクセイ・プロクロロフが活躍し、ソウル五輪では男子棒高跳びとハンマー投げでソ連が表彰台を独占した。ソウル五輪の女子4×400メートル・リレーではソ連チームが世界新記録で優勝し、サッカーでもソ連が金メダルを獲得した。
5.ソ連解体後のロシア・スポーツ
1991年にソ連が解体され、連邦を構成していた諸共和国はウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンなどの独立国となった。それに続く時期、ロシアでは資本主義化が一気に進められ、貧富の差が急速に拡大した。社会主義体制下では十分になされていた国家のサポートを失ったロシアのスポーツ界では、トレーニング施設が閉鎖されたり、コーチが海外に流出したりすることになった。
経済的に混乱した1990年代のロシアで発展したのは、テニスだった。4大大会を制したエヴゲニー・カフェリニコフ、アナスタシヤ・ムイシキナ、マリヤ・シャラポヴァの他、マラト・サフィン、スヴェトラーナ・クズネツォヴァ、エレーナ・デメンチェヴァなど、ソ連解体後のロシアからは多くの名選手が生まれた。
これには政治的な理由も考えられる。まず、冷戦期のソ連では海外で長期間トレーニングしたり、大会に出場したりすることが困難だった。また、大統領となったボリス・エリツィンがテニスの愛好者であったことの影響も、権威主義的なロシア社会においては少なくないはずだ。
ソ連解体後にプロ・ボクサーとして活躍した先駆けとしては、1990年代に日本を本拠地としてWBCフライ級チャンピオンとなったユーリー・アルバチャコフの名を挙げられるだろう。21世紀になるとニコライ・ヴァルーエフやアレクサンドル・ポベトキンが、WBAヘビー級チャンピオンとなった。
90年代の社会混乱は21世紀になると終息し、原油価格の高騰を背景にロシア経済は発展していった。強いロシアの復活を目指すプーチン大統領は自らも柔道家であることが知られているが、就任当初からスポーツの振興を重要課題に掲げていた。
2003年には既存の民間テレビ局が強引に閉鎖され、その空いたチャンネルを利用してスポーツ専門チャンネルが開局された。2008年にはヴィタリー・ムトコを大臣とするスポーツ省が作られた。スポーツに対する国からの支出は2008年から2011年にかけて倍増した。プールや体育館、スタジアムなどの数も21世紀に入ってから増加を続けた。ソ連解体と共に消滅してしまったGTOシステムだが、これも国の主導で2015年に復活が決まった。
国際的なメガイべントの招致も積極的になされ、2012年のモスクワ五輪招致には失敗したものの、2013年のモスクワ世界陸上、2014年のソチ冬季五輪、2018年のサッカー・ワールドカップの開催にこぎつけた。
ソ連解体直後の1992年のアルベールヴィル、バルセローナ両五輪では、旧ソ連を構成した各共和国の「統一チーム」での参加がなされた。アルベールヴィル五輪では女子クロスカントリースキーで金メダル3、銀メダル2を得たリュボーフィ・エゴロヴァの活躍が目立った。バルセローナ五輪では男子競泳自由形のアレクサンドル・ポポフ、エヴゲニー・サドーヴイ、レスリングのアレクサンドル・カレリンらが注目を集めた。
1967年にノヴォシビルスクで生まれたカレリンは、1988年にソ連チャンピオンとなり、同年のソウル五輪でも優勝した。その後はシドニー五輪まで無敗を続け、五輪3連覇、世界選手権9連覇、ヨーロッパ選手権12連覇の偉業を成し遂げた。そして、2000年のシドニー五輪決勝での敗退を機に競技生活を引退した。
1994年のリレハンメル五輪からは「統一チーム」ではなく、ロシアが単独で選手団を派遣することとなった。1996年のアトランタ五輪では体操の団体でロシアが男子1位、女子2位となり、アレクセイ・ネモフが男子の跳馬で、スヴェトラーナ・ホルキナが女子の段違い平行棒で優勝した。1998年の長野五輪では女子クロスカントリースキーでラリーサ・ラズチナが金メダル3、銀メダル1、銅メダル1を獲得し、フィギュアスケートのペアとアイスダンスでは1位、2位をロシア選手が独占した。
2000年のシドニー五輪では体操のネモフが個人総合優勝し、個人総合で11位に沈んだホルキナも段違い平行棒では優勝した。また、レスリングのフリースタイルでは、4つの階級でロシア選手が優勝した。2002年のソルトレークシティー五輪ではフィギュアスケート男子シングルで、アレクセイ・ヤグディンとエヴゲニー・プルシェンコが1位、2位となり、女子シングルではイリーナ・スルツカヤが銀メダルを獲得した。2004年のアテネ五輪と次の北京五輪では、女子棒高跳びのエレーナ・イシンバエヴァが優勝している。アテネ五輪ではまた、新体操個人でアリーナ・カバエヴァが優勝した。2006年のトリノ五輪でもメダルの数は振るわなかったが、フィギュアスケートでプルシェンコが金メダルを3つ獲得するなどロシア選手の活躍は注目された。
だが、2010年のバンクーバー五輪は、金メダルの数がわずか3つという悪夢のような結果に終わった。4年後のソチ五輪に向けて短期間で事態を打開しなければならず、その情勢を打開するために「国ぐるみのドーピング」が行なわれたとされている。
2012年のロンドン五輪では新体操ではエヴゲニヤ・カナエヴァが北京に続く連覇を果たした。男子バレーボールでもロシア代表が優勝した。その次の五輪はロシアのソチで開催される冬季大会だった。夏のビーチリゾートで冬季五輪を開催するという常識外れの計画で、海岸ぞいにスケート競技の施設が、山岳地域にスキー場が建設された。
五輪閉幕後、スケート競技の行なわれたメイン会場は、自動車のF1レースが開催されるなど各種イベントの舞台として利用されている。2018年のサッカー・ワールドカップの会場にもなり、また、アイスホッケーのトップリーグKHLに所属するチーム「ソチ」も五輪後に誕生した。スキー会場は大規模なリゾート地となり、レジャーとしてアルペンスキーを楽しむロシア国内の富裕層や中間層にアピールしている。
ロシアが国を挙げて臨んだソチ五輪は、大がかりな聖火リレーが行なわれたことでも話題となった。聖火は北極点やバイカル湖の水中、さらには宇宙空間にまで運ばれたのだ。この大会でロシア選手は、プルシェンコが最後の力を振り絞ったフィギュア団体、フィギュア女子シングルで優勝したアデリナ・ソトニコヴァなどどの国よりも多い数のメダルを獲得し、スポーツ大国復活を全世界に印象づけた。だが、少なからぬ金メダリストが大会後に、ドーピング違反で永久追放処分を受けることとなった。
ドーピング問題が浮上したのは、ソチ五輪から10か月後のことである。反ドーピング機関(RUSADA)の職員が、ドイツのテレビで告発を行なったのだ。世界反ドーピング機関(WADA)は調査の結果、「国ぐるみの不正」がなされていたと結論づけ、2016年のリオ五輪では陸上競技や重量挙げで100人以上のロシア選手が締め出される事態となった。また、パラリンピックではロシアの全選手が排除された。それでもリオ五輪でのロシアはレスリングやフェンシングでメダルを増やし、国別のメダル数では4位の座を得ている。シンクロナイズドスイミングのデュエットとチーム、新体操の団体では、いずれもロシアが5連覇を飾った。新体操ではマルガリータ・マムンが個人総合優勝を果たした。
2018年の平昌五輪においてもなお、このドーピング問題は解決されなかった。ロシアは「国としての参加」を認められず、ロシア人選手は「ロシアからのオリンピック・アスリート」の名で参加することとなった。だが、アリーナ・ザギトヴァとエヴゲーニヤ・メドヴェージェヴァがフィギュアスケート女子シングルで1位、2位となり、男子アイスホッケーではソ連解体後、初めての優勝を飾るなど、ロシア選手は逆境の中で一定の存在感を示すことに成功した。
スポーツ大国の伝統は、現在のロシアでも失われてはいない。だが、勝利至上主義やスポーツの政治利用という負の側面が顕在化している。
プーチン大統領はスポーツを通してロシアの復活をアピールしたが、国際社会は「国ぐるみのドーピング」を批判し、ロシアは「悪の国」であるというイメージを世界中の市民に植え付けている。そのような国際的な批判を前に、ロシア国内のナショナリズムはむしろ高まり、プーチン大統領への支持はさらに高いものになっていく。ロシア国内においても、欧米を中心とした国際社会においても、スポーツというテーマは政治的なアピールのために用いられてしまうのだ。
ロシア革命により国際社会と断絶することとなったソ連が、国際社会への復帰をアピールできた場が、スポーツであったと言えよう。だが、ソ連解体後も西欧はロシアから距離を置き、NATOは敵対を続けてきた。ドーピング問題を機に、オリンピックの場からもロシアは追われることとなった。ロシアが「普通の国」になり、国際社会に融和する日は来るのだろうか? 重すぎる過去の栄光の記憶が、その妨げになっているのだろうか?
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