はじめに
2017年に開催された第4回ワールドベースボールクラシック(WBC)で、第2ラウンドに勝ち進んだ8チームのうち4チームがカリブ海地域で占められていた。オランダ代表チームにしても、メンバーの半数以上がカリブ海に浮かぶキュラソー島かアルバ島出身者である。さらにこれらの選手の大半がアメリカのMLB球団に所属していることから、カリブ海地域でいかに野球が盛んに行なわれているかがわかる(表1)。野球以外でも、陸上短距離界にウサイン・ボルト選手が登場したことによって、彼の出身地であるジャマイカが一躍有名になり、スポーツをとおしてカリブ海地域が身近な存在になりつつある。その一方で、素朴な疑問も浮かんでくる。同じカリブ海地域にありながら、なぜジャマイカからプロ野球選手が生まれず、ドミニカ共和国(以下、ドミニカ)から陸上選手は誕生しないのだろうか。
カリブ海地域とは、アメリカのフロリダ半島から南米ベネズエラの北端のあいだに点在する島嶼群(バハマ諸島、イスパニョーラ島、大アンティール諸島、小アンティール諸島)によって構成される地域を指すが、英語圏では西インド諸島と呼ばれている(図1)。カリブ海地域には13の独立国に加え、アメリカの自由連合州であるプエルト・リコを筆頭に、イギリス、フランス、オランダに属する諸島があるが、人口規模は、キューバ、ドミニカ、ハイチで1000万人、ジャマイカ、トリニダード・トバゴで100万人を超えるほかは、30万人に満たない国・諸島がほとんどである。
1492年にコロンブスによって「発見」されて以降、カリブ海地域は欧米諸国に翻弄されてきた。紀元前2600年頃からこの地域に居住していたとされる先住民は、ヨーロッパ人が持ち込んだ疫病と強制労働が原因でほぼ絶滅する。彼らの代わりに西アフリカから大量の奴隷が連れてこられ、サトウキビ・プランテーションでの強制労働に従事させられた。結果としてヨーロッパ系とアフリカ系の混血が進む一方で、奴隷制が廃止される19世紀中頃からは、インドからの契約移民やアラブ系の商人が流入し、クレオールと呼ばれる独自の社会が形成された。近年になると、アメリカの政治経済的な支配下に置かれるようになり、「アメリカの裏庭」と揶揄されるほどである。このように、カリブ海地域はコロンブスによる「発見」以前と以降で、まったく異なる社会へと変貌を遂げてきた。これが、同じようなヨーロッパ列強による植民地経験を持つラテンアメリカやアフリカと決定的に異なる点である。
ただし、カリブ海地域の異文化混淆の様相は一律ではない。とりわけ旧スペイン領であるキューバ、ドミニカ、プエルト・リコと、それ以外の国・諸島との差は大きく、植民地支配に起因する階級分化や人種差別イデオロギーによって、多様かつ複雑な社会が形成されているため、カリブ海地域として一括りに語れないことには注意が必要である。本章は、カリブ海地域のスポーツ史を描くことを目的としているが、上述のような事情から、旧宗主国やアメリカとの関係によって伝播したスポーツも国や諸島によって異なり、それぞれが独自の発展を遂げてきたため、ある特定のスポーツをもってカリブ海地域を代表させることは不可能である。そのため、本章では伝播したスポーツによってカリブ海地域を色分けし、各スポーツの発展過程から浮かびあがる国・諸島ごとの特徴を明らかにするとともに、近代スポーツに向きあってきたカリブ海地域の人びとが共有する歴史的経験とはどのようなものであったかについて考えてみることにしたい。
1.植民地におけるクリケット体験
カリブ海地域に初めて近代スポーツを持ち込んだのは、イギリスである。17世紀に入るとそれまでスペインが独占してきたカリブ海地域に、フランス、オランダ、イギリスが進出する。イギリスにとっては、北米大陸に入植した直後であり、カリブ海地域に領土を得ることは重要な意味を持っていた。すでに先住民が絶滅していたバルバドス島やジャマイカに進出した当初、プランテーションにおける労働力は本国からの年季契約移民でまかなっていた。1654〜1685年までの期間に北米の植民地であるバージニアを含めると、イギリス本国から1万人以上の労働者が植民地に渡ったとされる。しかし、過酷な労働に耐えかねて逃亡するケースが相次いだことを受け、反体制派の人物や犯罪者が植民地に送られることになる。植民地政府側は、彼らの扱いに頭を悩ませ、たびたびイギリス本国に改善を求めなくてはならなかったという。こうした経緯から、イギリスは1663年に王立アフリカ冒険商人会社を設立し、西アフリカで調達した人びとを奴隷として北米やカリブ海地域の植民地へと連れていく体制を確立したのである。17世紀末には、ジャマイカやバルバドス島をはじめとするイギリス領カリブ海地域(以下、西インド諸島)では、アフリカ系人口が圧倒的な数を占めるまでになり、現在に連なる複合社会の基礎が誕生したと言えよう。
西インド諸島にクリケットがいつ伝わったかは不明である。しかし、北米の植民地バージニアにおいて、1710年にはクリケットが行なわれていたとの記録が残っていることから、18世紀半ばまでには伝わっていたと推測できる。ただし、イギリス本国でクリケットが上流階級の人びと(ジェントルマン)のスポーツだったのと同様に、植民地でもその担い手は、行政官や農園主などのイギリス人富裕層に限られていた。1842年までは、バルバドス島やトリニダード島でクリケット・クラブが誕生し、1865年にはバルバドス島のチームがイギリス領ギアナ(現在のガイアナ共和国)に遠征をしていることから、イギリスの植民地拡大とともにクリケットが伝播していったことがわかる。では、植民地で圧倒的多数を占めていた黒人は、どのようにクリケットに関わっていたのだろうか。ここでは、トリニダード島出身で著名なポストコロニアル批評家であるC・L・R・ジェームズの自伝的作品『境界を越えて』(1963年)からひも解いてみたい。
20世紀初めのトリニダード島には、パブリックスクールのクイーンズ・ロイヤル・カレッジとカトリック系のセント・メアリーズのふたつのカレッジがあった。黒人の中産階級の家に生まれたジェームズにとっては、政府の奨学金を受給し、いずれかのカレッジに入学することが数少ない社会上昇の道だった。彼はパブリックスクールへの進学を機に、クリケットを本格的に始める。4歳の誕生日に父親からクリケットのバットとボールを贈られて以来、生家近くの広場で毎日繰り広げられるクリケットの試合を眺め、自らもプレーしてきたジェームズにとっては、自然の成り行きだった(図2)。カレッジ教員の全てがオックスフォードかケンブリッジ大学卒のイギリス人だったのに対し、生徒は、イギリス人の役人やビジネスマンの息子、中産階級の黒人や混血、中国系、インド系というもので、トリニダード島の多様な社会を映し出していた。生徒たちはクリケットをとおしてチームプレーや規則を遵守することを叩きこまれたが、それはスポーツをとおしたイギリス的規範の学習に他ならなかった。
パブリックスクールを卒業したジェームズを待ち受けていたのは、人種差別の現実である。当時のトリニダード島を象徴するように、クリケット・クラブも社会階層によって明確に境界線が引かれていた。そのトップに君臨していたのが、クイーンズパーク・クラブで、島同士の交流試合やイギリスのクリケットチームとの交流を取り仕切っていたが、そのメンバーは富裕層の白人で占められていた。反対に、黒人の労働者階級によってつくられたチームがスティンゴであったが、ジェームズはいずれのクラブにも加入することができなかった。彼の選択肢は、褐色系中産階級が中心のメープルと黒人下層中産階級で構成されたシャノンに絞られ、悩んだあげく前者を選択することになった。
トリニダード島に限らず、西インド諸島では、皮膚の色と階級によって社会階層が形成されてきたが、この地で暮らす人びとはクリケットをとおして、植民地社会の現実や自身のルーツをはっきりと確認することになる。ジェームズはこれを「植民地人としてのクリケット体験」と呼んだ。クリケットによって突きつけられる人種と階級という現実は、西インド諸島の人びとに葛藤をもたらした。選手も観客も、クリケットの試合中はその根底にあるイギリス流の規範を受け入れる一方で、いったん日常生活に戻るとそこにはイギリスによる植民地支配が待ち受けていたからである。そうした閉塞感を打ち破ろうとしたのが、自身の社会的役割を認識していた黒人クリケット選手だった。
2.植民地解放への願い
1960年1月30日に事件は起きる。トリニダード島のポート・オブ・スペイン(現在の首都)で開催され、島の人口80万人のうち3万人の観衆が駆けつけた西インド諸島選抜チームとイギリスのメリルボーン・クリケット・クラブの試合でのことである。圧倒的な点差でメリルボーンが優位に試合を進める中、西インド諸島チームの打者は次々にアウトを重ねていたが、ひとつのアウトの判定をめぐって、それを不服とする観客がグラウンドに空き瓶を投げ込み始め、試合の続行が不可能となった。直接の原因は、西インド諸島チームの不甲斐ない戦い方にフラストレーションを溜めていた観客が、審判の判定を機に不満を爆発させたことにある。しかし、事件の火種は、長年のあいだ西インド諸島の人びとのあいだで燻っていた植民地支配への反感に他ならなかった。それがクリケットにおけるジャッジの不当性と結びついた。イギリス人によって現地の選手たちが打ち負かされ、屈辱を味あわされているのは、イギリス人によって不当に仕組まれたものであり、それはまさにイギリス人による支配の不当性を象徴するものであるとの確信をもたらし、そうした感情を噴出させたのである。
西インド諸島における植民地解放への願いは、クリケット代表チームのキャプテン選出の問題とも重なっていった。ジャマイカ代表の1950年のイギリス遠征チームに黒人選手のジョージ・ヘドレーが選出されたが、キャプテンには選ばれなかった。ヘドレーは、イギリスのリーグで活躍しており、彼がキャプテンの資格を有していることに異議を唱えるものは、少なくとも一般大衆のあいだには誰ひとりとしていなかった。結局、ヘドレーは代表を辞退し、遠征にも参加しなかった。こうした人種差別は、西インド諸島選抜チームのキャプテン選考においても繰り返されてきた。ヘドレー以外にも、レアリー・コンスタンティン、エヴァートン・ウィークス、クライド・ウォルコットといった歴史に名を残す名選手たちも、皮膚の色が理由で代表チームのキャプテンに指名されることはなかった。正確に言えば、西インド諸島で開催される試合やインド遠征では黒人選手もキャプテンに指名されることがあった。しかし、オーストラリアとイギリスへの遠征チームでは、決して選ばれることはなかった。ここにも植民地支配の論理が強く働いていたのである。
空き瓶事件以降、黒人のキャプテンを熱望する声が強くなる中、1960〜61年におけるオーストラリア遠征で、ようやくフランク・ウォレルがキャプテンに選出されることになり、西インド諸島のクリケットに新たな歴史が刻まれる(図3)。この直後にジャマイカやトリニダード・トバゴがイギリスから独立したのは、決して偶然ではなかった。それほど現実の世界の動きとクリケットが密接に結びついていたのである。言い換えるならば、西インド諸島の人びとは、クリケットというスポーツに植民地支配の歴史を重ね合わせるとともに、未来への希望をも託していたのである。
3.アメリカへの道―旧スペイン領カリブ海地域
人種差別イデオロギーと密接に結びつく形で発展してきたクリケットに対し、野球はカリブ海地域でどのような歴史をたどってきたのだろうか。コロンブスによる「発見」以降、スペインによる植民地支配が続いていたキューバに野球が伝播したのは1860年代と推測されている。アメリカに留学した上流階級出身のキューバ人学生が、アメリカから野球を持ち帰り、1865年か66年にはキューバで初めての試合が行なわれた。その試合は、キューバの港湾労働者と砂糖を運搬するアメリカ船の乗務員によるものとされている。ただし、記録が確認できるものとしては、1868年までに結成されたハバナクラブが、マタンサスのチームと対戦し、51対9で勝利をおさめた試合が最初である。その試合で活躍した選手の中に、キューバ野球のパイオニアであるエミリオ・サボウリンがいた。
キューバプロ野球協会を設立したサボウリンは、その生涯を祖国の自由のために捧げた人物だった。彼が現役時代を送った1860年代は、スペインによる支配への反発から独立の気運が高まっていた時期と重なる。1868年に勃発したキューバ独立戦争のあいだ、サボウリンは野球で得た収入を革命軍の資金に提供するなど、積極的に植民地支配からの解放に関与した。こうした行為が発覚し、1895年12月に数人の野球選手とともに逮捕され、野球も禁止される。スペイン領モロッコの監獄へと送られたサボウリンは、1897年に肺炎のためこの監獄で亡くなった。その翌年、30年に及ぶ独立戦争が革命軍の勝利に傾きつつあるところへアメリカが介入し、圧倒的な戦力により独立戦争は終結するものの、これ以降、キューバは実質的にアメリカの支配を受けることになる。
アメリカの影響力が強まるにつれ、野球は目覚ましい発展を遂げていく。1917年にプロ野球リーグが再開されると、冬季に開催されるリーグ戦に多くの大リーガーが参戦する一方で、キューバ人選手もアメリカのチームでプレーするようになった。この背景には、アメリカにおける根強い人種差別があった。1947年に初めての黒人選手であるジャッキー・ロビンソンが誕生するまで、黒人選手はニグロ・リーグでしかプレーすることができなかった。彼らの代わりにリクルートされたのが、褐色の肌をしたキューバ人選手だったのである。こうしたアメリカとの関係は、1959年のキューバ革命まで続き、野球が発展する要因となった。革命後にアメリカと国交を断絶したキューバだが、フィデル・カストロがアメリカの「国技」である野球を禁止するどころか、積極的に奨励したことから、オリンピックでも3度の金メダルに輝くなど、長年、アマチュア野球界のトップに君臨するまでになる。
20世紀後半、東西冷戦の終結とソ連崩壊がきっかけとなりキューバは深刻な経済危機に陥る。マイアミに亡命するキューバ人が続出し、1993年にアメリカドルの所持が解禁されると社会格差が広がり、その流れは加速した。21世紀に入ると、野球選手の中からも亡命者が続出する。アトランタ、シドニー五輪で活躍したホセ・コントレラス投手は、2002年のメキシコ遠征中に亡命し、翌年ニューヨーク・ヤンキースに高額の契約金で入団する。2009年には、平均球速が160キロを超えることで知られるアロルディス・チャプマン投手が亡命し、翌年から大リーグでプレーすることになるなど、これまで100人近い選手が大リーグでプレーすることを目的にアメリカへと亡命している。野球をとおして自由を手に入れようとしたキューバ野球の父サボウリンの遺志が、現在のキューバでもその形を変えて受け継がれているのである。
4.大リーガーの供給地へ―ドミニカ共和国
キューバ独立戦争によって多くの革命家がドミニカに亡命したが、彼らとともに海を渡ったのが野球だった。1891年6月にドミニカで最初のクラブチームがふたつ創設され、両者によって初めて野球の試合が行なわれた。キューバでもそうであったように、アメリカでの留学から帰国した上流階級の若者たちにより、首都サント・ドミンゴで広がった。1907年、彼らが結成したリセイ・クラブは、現在でも国内最大の人気を誇るプロ球団ティグレス・デル・リセイとして存続している。
一方、地方で野球が広まったのは、キューバ人がサトウキビ栽培用の土地を購入し、収穫作業の合間の娯楽として労働者たちに教えたのがきっかけとされている。ドミニカ南東部のサンペドロ・デ・マコリスでは、アメリカ資本によって製糖工場の買収が進んだが、各工場において労働者の休憩時間や休耕期間の娯楽として奨励されたのが野球だった。1916〜1924年のアメリカによる軍事占領時代を迎えると、サトウキビ・プランテーションで働く労働者たちの娯楽であった野球は、アマチュア野球の発展にあわせて次第に熱を帯び、製糖会社のオーナーは、優れた選手を工場のクラブに引き抜くようになった。やがて選手たちはサトウキビ畑には出ず、野球を専門にするようになっていく。そうした選手たちを取り込んでいったのが、1910年に結成されたプロ球団エストレージャス・オリエンタレスである。サンペドロ・デ・マコリス周辺からこれまで多数の大リーガーが輩出しているが、それはこの地方で比較的はやい段階から製糖業が栄えたことにより、野球の発展に不可欠な資本提供者(パトロン)が数多く存在していたことが理由として挙げられる。野球が地方都市にも拡大していく中で、1921年に、首都でプロ球団レオネス・デル・エスコヒードが誕生したことを機に、プロ野球リーグが結成された。
1930年に始まったトルヒージョによる独裁時代は、1961年に彼が暗殺されるまで続いた。トルヒージョは、国内の農地面積の3分の1を私有化すると同時に、商業施設や製糖工場までも没収して家族が経営する企業の所有とし、抵抗する者は殺害した。彼は、野球が国民のあいだで人気のあることに目をつけ、国民の不満をそらすために野球の普及に努めた。独裁時代、人びとの生活は忍耐を強いられるものであったが、野球は黄金期を迎える。
キューバで革命政権が樹立されると、大リーグ球団の目はドミニカへと向けられた。キューバ革命の直前に初めての大リーガーが誕生していたこと、トルヒージョ暗殺後にアメリカ軍による2度目の軍事介入(1965年)を経験したことも追い風となった。さらに1976年に大リーグでフリーエージェント制が導入されると、選手の年俸は高騰し、各球団のオーナーの頭を悩ませる。対策として、全ての球団がドミニカにフルタイムのスカウトを置くようになり、他球団に先駆けて選手を獲得する青田買い競争が激化する。1977年にトロント・ブルージェイズのスカウト部長エピィ・ゲレーロは、若者をよりじっくり観察できるような施設を自費で建設する決断をした。彼が球団に提案したところ、球団はより壮大なプロジェクトを提案し膨大な資金を投入することを決めた。これが、現在ベースボール・アカデミーとして知られる、大リーグ全球団と日本の広島東洋カープが開設している選手発掘・養成施設の第1号である。アカデミー設立を機にドミニカ出身の大リーガーの数は、一気に増大する。1970年代に37人であったドミニカ出身選手は、2015年のシーズン終了時には、138人が在籍するまでになっている(図4)。
5.もし、神が望めば
アメリカによって構築されたシステムであるアカデミーが、マイナーリーグの末端に位置づけられプロ野球選手の入口となっている状況は、ドミニカがアメリカに従属しているように映る。しかし、ドミニカ人がどのように野球と関わっているのかに注目すると、それとは異なる見方が浮かんでくる。
各アカデミーは国内全土にスカウトを派遣し、17〜20歳までの優秀な野球少年を発掘し、トライアウトを受けさせる。合格した少年には契約金が支払われるが、金額は平均で270万円に上る。貧困層の月収が2万円にも満たないことを考えると、少年やその家族に与える影響の大きさは容易に想像がつくであろう。そのため、大リーガーではなく、アカデミーとの契約が現実的な目標となる。彼らは毎日、家の近くの野球場でブスコン(探す人)とよばれるコーチのもとで練習に励む。ブスコンは、無償で練習につきあうだけではなく、めぼしい選手がいれば自宅に住まわせ、食事やプロテインを与える。もし、少年の中からアカデミーと契約するものがでれば、契約金の20%程度を報酬として受け取ることができるからだ。
彼らを野球に駆り立てる原動力となっているのは、地元出身の大リーガーの存在である。どの地域にも、現役もしくは引退した大リーガーがいる。彼らは膨大な額の契約金を家族はもとより、出身地の人びとのために使う。クリスマス・プレゼントや野球道具に加え、村の祭りを開催する資金を提供する選手や災害からの復興費用を支援する選手も少なくない。「神のおかげ」で大リーガーになることができたのだから、神への恩返しのために地元の人びとを助けるのは当然だと考えるからである。そうした振る舞いは、彼らが所有する豪邸や高級車のイメージとあいまって地元の子どもたちに強い憧れをもたらし、新たな大リーガーを再生産する大きな要因となっている。
一方、大リーガーになれなかった元アカデミー選手の多くは、労働移民としてアメリカに渡る傾向にある。契約金で購入した家の所有証明書のおかげでアメリカのビザが取得しやすくなり、家を担保にすれば渡航費用を工面できるからだ。人口約1000万人のうち300万人が海外で暮らすドミニカでは、アメリカへの移住を希望する人が後を絶たない。しかし、アメリカに正規のビザを取得して渡航することは年々難しくなりつつあり、メキシコ国境を越える非合法的手段でアメリカを目指す人びとが増加している。アメリカ本土のマイナーリーグでプレーした選手が自由契約となった場合、ドミニカには帰らずに家族や友人の暮らすボストンやニューヨークで働き始めることも多い。彼らに共通するのは、大リーガーの夢が途中で潰えても、落ち込むことはなく、野球で手にしたドルを元手に第2の人生を切りひらいていることである。
ドミニカ人は未来について語るとき、必ず「もし、神が望めば」と前置きする。「神が望めば」大リーガーになれるし、アメリカに渡ることもできる。夢が叶わなくても、それは「神が望まなかった」からだと了解することができるからだ。そこには、大リーガーになることだけを絶対視して、野球だけが貧困から抜け出る唯一の手段であるといった悲壮感は微塵も見あたらない。ここからは、ドミニカ野球がアメリカによって導入されたリクルートシステムに取り込まれ、搾取されているという一般的な視点が、あくまでもアメリカ側からみた一面的な理解に過ぎないことがわかる。
キューバ人によって伝えられた野球が、サトウキビ・プランテーションで広まり、アメリカの影響を受けながら発展してきたという歴史そのものの中に、アメリカのシステムを自分たちの生活の中に取り込んできたドミニカ人の「したたかな」生きかたが見え隠れする。それらが幾重にも層をなし、野球大国の底辺を形成してきたという事実も、ドミニカ野球の発展史として記憶に留められなければならない(図5)。
6.グローバル化が生みだすアスリート
現在の西インド諸島ではバスケットボールの人気がクリケットを上回るようになっている。「クリケットは、いまでも高い地位にあるが、国代表のテストマッチをのぞけば、クリケットの試合は観客を動員できていない。クリケットに代わってバスケットボールの人気が若者を中心に高まっており、NBAのスター選手のほうが、フランク・ウォレルといった往年のクリケット選手よりも広く名が知られている」とバルバドスのテレビ関係者は語る。NBA中継を通じてアメリカ生まれのバスケットボールが旧イギリス領にまで浸透してきているのだ。だが、こうした新たなスポーツの浸透が商業主義の波に乗って引き起こされていると見るのは表面的であろう。西インド諸島の人びとのあいだで、クリケットがイギリス上流階級のスポーツであるとの意識が根強く存在するとともに、黒人選手が中心を占めるNBAに親近感を覚える人びとが特に若者を中心に増えていると解釈するのが妥当であり、まさに西インド諸島におけるクリケット体験の歴史に根ざしたものに他ならない。
一方、同じ旧イギリス領のジャマイカでも陸上短距離走の人気がクリケットを凌駕した。ドーピングでソウル五輪の金メダルをはく奪されたベン・ジョンソンやドノバン・ベイリー(アトランタ五輪の金メダリスト)は、子どもの頃にジャマイカからカナダに移住した。イギリス代表のリンフォード・クリスティ(バルセローナ五輪金メダリスト)もジャマイカ出身で、イギリス生まれのコリン・ジャクソン(元110メートルハードル世界記録保持者)も、両親がジャマイカからの移民である。彼らに共通しているのは、西欧の大学などでトレーニングを受け、その才能を開花させたことである。彼らの活躍以降、ジャマイカでは独自のトレーニング施設を充実させるなど育成に力を入れるようになり、ウサイン・ボルトというスーパースターを生みだすことになったのである。
7.異文化混淆の歴史の中で
本章では、カリブ海地域をイギリスとスペインの旧宗主国に分けた上で、クリケットと野球という異なるスポーツがどのように伝播し、発展してきたのかを中心に論じてきた。それは冒頭でも述べたとおり、あまりに多様な背景を有するカリブ海地域をひとまとめにくくることができないとの理由からだった。本章では、旧イギリス領において、クリケットの歴史そのものが政治的な問題と不可分に結びついていたことを明らかにする一方で、旧スペイン領においては、アメリカの強い影響力のもとで、アメリカに翻弄されながらも自分たちのスポーツとして野球を取り込んできた過程をたどってきた。
両者を分けるものは、旧宗主国のスポーツか否か、あるいは独立した時期の違いである。キューバで野球が発展したのは、野球がアメリカのスポーツであり、スペインからの独立を願う人びとには自由の象徴と映ったことは想像に難くない。現在、旧イギリス領でクリケットに代わって、バスケットボールが盛んに行なわれるようになっているのも同じ文脈で理解することが可能である。一方で、ドミニカの野球やジャマイカの陸上短距離走のように、近年のグローバル化がスポーツの発展に大きな影響を及ぼすようになっている点にも注目すべきである。
カリブ海地域に暮らす人びとのルーツは、西アフリカにある。先住民がほぼ絶滅したこの地域では、旧宗主国と西アフリカの人びとの混淆が進む中で、新たな社会を築いてきた。スポーツもまた、こうした異文化混淆の歴史の中で、旧宗主国やその時々の政治経済状況や国際関係から影響を受けながら発展してきた。そのように考えると、カリブ海地域のスポーツとは、特定の地域や時代によって異なる意味を帯び、また絶えず変化し続けるものだと捉えるべきであろう。
「クリケットしか知らない者にクリケットのなにがわかるというのか?」というC・L・R・ジェームズの箴言が全てを物語っている。