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はじめに
ブラジルの代表的なスポーツは何かと聞かれたら、ほとんどの方がサッカーと答えるだろう。ブラジルは、ワールドカップで世界最多の5回優勝しているサッカー大国なのだ。しかし、オリンピックの成績などにも示されているように、サッカーがブラジルのスポーツのすべてではない。例えば2016年8月、南米大陸初のオリンピックとなったリオ五輪は、政情の混乱により大統領の職務停止中に、しかも世界大恐慌以来の不況によって直前に前代未聞の財政非常事態宣言が出されるという状況の中で開始されたが、ふたを開けてみるとブラジルは金7つ、銀6つ、銅6つ、合わせて19のメダルを獲得した。初のトップ10入りは叶わず13位に終わったとは言え、ロンドン五輪の14位よりひとつ順位をあげて面目を保った。
金メダル7つの内訳は、女子柔道57キロ級、ボクシング、ヨット、男子棒高跳び、男子ビーチバレー、男子バレーボール、そしてサッカーである。ブラジルはバレーボールの強豪国で、男女ともオリンピックでも好成績を収めてきた。1980年のモスクワ五輪から連続10回出場し、2008年北京、2012年ロンドンと金を取っている女子は3連覇を狙ったものの5位に終わったが、男子は見事に金メダルを獲得した。男子は、1992年バルセローナ、2004年アテネに続く3度めの金だ。
リオ五輪でメダルは取れなかったが、バスケットボールもブラジルで盛んだ。1964年の東京五輪の銅以来メダルからは遠ざかっている男子だが、五輪に14回出場し、2012年のロンドンで5位、リオで9位だった。これまで何人ものNBA選手を出している点は注目に値する。一方女子は、リオ五輪こそ出場を逃したが、これまでに五輪に5度出て、1996年のアトランタで銀、2000年シドニーで銅と2度メダルを獲得している。
23歳以下の選手が出場する五輪のサッカーに、ブラジルはこれまで13回出場し、1984年ロサンゼルス、88年ソウル、96年アトランタ、2008年北京で銅、12年のロンドンで銀、そしてリオ五輪でついに金メダルを手にした。
このようにバレーやバスケなどでも強国ぶりを発揮しているが、ブラジルにとってサッカーはやはり特別な存在である。ブラジルの社会学者マウリシオ・ムラヂが、フランスの社会学者マルセル・モースの概念を援用し、サッカーを「全体的社会的事実(fato social total)」―法、経済、政治、宗教、芸術等々の個別の領域に還元できない現象―とするのはそのためだ。ブラジルのサッカーは、ブラジルの価値観を反映している。また、暴力や差別といった社会の影を映し出す鏡でもある。そして、サッカーはブラジルを国家としてまとめる力も持っている。この章では、「人種」という概念に注目しながらブラジルのサッカーの栄光とともに、その影のひとつである人種差別を追いかけてみることにしたい。
1.白人エリートのスポーツとしてのサッカー
ブラジルで、サッカーは白人エリートたちのスポーツとして始まった。イギリス系ブラジル人チャールズ・ミラーが留学先のイングランドから、1894年にサッカーをブラジルへ持ち帰り、翌95年にはサンパウロでサッカーの試合が行なわれた。これが広く知られているブラジルのサッカーの始まりである。近年の研究では、それ以前にイエズス会の学校やブラジル在住のイギリス人の間でサッカーが行なわれていたことが明らかになっているが、サッカーがサンパウロや当時首都だったリオデジャネイロ市(以下リオ。首都は1960年にブラジリアに移る)に広まるきっかけをつくったのはミラーである。
サンパウロでは5つのチームが結成された。1901年にブラジル・サッカー協会が設立され、翌年には選手権が行なわれている。ちなみに、名門コリンチャンスが創立されたのは1910年である。一方、リオでは、フルミネンセ(1902年)、フラメンゴ(1911年)、ボタフォゴ(1904年)といった現在にいたるまでブラジルのサッカーを牽引してきたクラブが次々と誕生する。このうちフラメンゴとボタフォゴの正式名称は、それぞれClube de Regatas do Flamengo (フラメンゴ・レガッタ・クラブ)、Botafogo de Futebol e Regatas (ボタフォゴ・フチボウ・レガッタ―ブラジルでサッカーはフチボウ futebolと呼ばれる)である。レガッタつまりボートのクラブとしてそれぞれ1895年と94年に創立されたこのふたつのクラブがサッカー部門を新設したのだ。上流階級のスポーツだったレガッタのクラブがサッカーを取り入れたことは、サッカーがそうした社会階層に属する人たちに注目されたことを意味している。
サッカーは労働者階級にも急速に広がっていった。サンパウロでは1902年頃から冠水湿原にピッチ(サッカー・グラウンド)がいくつもできて、サッカーは富裕層だけが行なうものではなくなっていく。リオでも1904年に紡績会社の社員たちが創立したチームのバングー(現在までプロチームとして存続している)には、会社のエリートだけでなく工場の労働者も参加し、リオにおけるサッカーの大衆化に先鞭をつけた。しかし、サッカーにおける白人エリートたちの特権的な立場は変わらなかった。
ブラジル代表チームの初めての対外試合が行なわれたのは、1914年6月21日である。対戦相手はイングランドのエスター・シティで、リオのフルミネンセのスタジアムで行なわれたことまでははっきりしているが、結果は2対0でブラジルが勝ったとするものと、3対3で引き分けたとするものがあり、実際のところは不明だ。
サッカーは急速に大衆化したものの、依然として白人エリートたちがサッカー・プレーヤーの中ではマジョリティだった。しかし、試合で勝つためにクラブチームは白人以外の選手も加入させるようになっていった。
人種差別とそれに抗う力
マリオ・フィーリョは、ブラジルのスポーツジャーナリストのパイオニアである。ブラジルの代表的なサッカー専用スタジアムであるリオのマラカナンは、彼が亡くなった後すぐに、その功績を称えマリオ・フィーリョ・スタジアムを正式名称とし現在にいたっているほどである。
1947年、フィーリョは『ブラジルのサッカーにおける黒人』という画期的な本を出した(図1)。「黒人」となっているが、そこには黒人とムラート(白人と黒人の混血)も含まれており、サッカーにおける黒人系の有色人種の重要性を論じた著作である。この本は版を重ね、最新の2010年刊の第5版の表紙には「ブラジルのサッカーについての最も重要な古典」と刷り込まれている(図1)。
1964年に出た第2版に書き加えた新たな章で、フィーリョは、1950年のブラジルワールドカップでのブラジルの悲劇的な敗戦(後に紹介する)まで「ブラジルのサッカー選手で国民的アイドルは、みなムラートだった」と述べている。この発言を、いささか誇張だとする意見もある。また、現在では「人種」という概念そのものに疑義を唱える論者も少なくない。しかし、初版が出た47年にせよ第2版が出た64年にせよ、黒人やムラートに対する差別が現在に比べるとずっと激しかった時代に、有色人種のサッカー選手を賞揚した意義は大きい。
フィーリョが取り上げたムラートのひとりを紹介しよう。現在では半ば忘れられた存在となっている伝説のストライカー、アルツール・フリーデンライヒである。彼はサッカー史上最多の生涯通算1329ゴールを挙げたとされるが、この数字の真偽は定かではない。
フリーデンライヒは、ドイツ系2世のブラジル人の父とアフリカ系ブラジル人の母の間に生まれた。ブラジルで奴隷制が廃止されたのは1888年であり、フリーデンライヒの母はその時に解放された奴隷だった。1914年に白人以外で初めてブラジル代表に選ばれ、先に紹介したブラジル初の対外試合のエスター・シティ戦にも出場している。
1916年からアルゼンチン、ブラジル、ウルグアイ、チリの南米4か国の対抗戦コパ・アメリカが開かれるようになった。19年の第3回決勝戦で、当時世界のトップクラスだったウルグアイとの試合でフリーデンライヒが決勝ゴールをあげ、ブラジルをこの大会初優勝に導いた。これを契機として、ブラジル人たちがサッカーに注目するようになっていったという点で、この優勝はサッカー大国ブラジルの礎となる歴史的なものであった。
1934年に43歳で現役を引退するまで、フリーデンライヒはさまざまなチームで活躍したがずっと差別に苦しんだ。というのも彼が入っているような高いレベルのチームでは、依然としてほとんどの選手が白人だったからだ。フリーデンライヒは、なるべく白人に近い外見にしようと髪をポマードで撫でつけていた(図2)。
残念ながら、人種差別は現在まで世界のいたるところに存在している。ブラジル代表をはじめとしてレベルの高いクラブでのマジョリティは黒人やムラート、つまり白人以外の選手だが、彼らに対する差別が根絶している訳ではない。ブラジルは2018年のロシアワールドカップの準々決勝の対ベルギー戦で1対2で敗退したが、オウンゴールをしたフェルナンジーニョに対してSNSで多くの人種差別的なコメントが寄せられたのもその一例に過ぎない。
2.国技となったサッカー
1930年代には、世界中でスポーツが政治やナショナリズムとの結びつきを強めた。ムッソリーニ政権下のイタリアで第2回ワールドカップが開かれたのが34年、ヒトラーが率いたドイツのベルリンで第11回オリンピックが行なわれたのが36年である。ワールドカップではイタリアが優勝し、ベルリン五輪ではドイツが金銀銅すべてのメダルを最も多く獲得し、それぞれ国威を世界に示した。
ブラジルでも、30年代に政治がスポーツと密接な関係を持つようになった。ジェトゥリオ・ヴァルガスは、1930年から45年までと51年から54年までの2度大統領を務めた政治家である。ブラジルは連邦共和国だが、ヴァルガスが1回めに大統領になった1930年まで州や地域ごとの政治や文化の独自性が強かった。ヴァルガス第1次政権下で、ブラジルをアイデンティティを持った近代の統一国家とするために様々な領域で改革が行なわれたが、アメリカの地理学者クリストファー・ガフニーが指摘するようにサッカーも例外ではなかった。
1933年、まずリオのサッカー協会がプロのサッカー選手を認め、サンパウロ・サッカー協会もそれに続いた。38年のフランスのワールドカップまでには、ブラジル全土にプロ化が浸透した。16か国がトーナメントで戦ったこのワールドカップでブラジルは3位となる。その立役者は、5試合で7点を取り得点王となった「黒いダイヤ」というニックネームのムラートであるレオニダスである(図3)。バイシクルキックの創始者とされるレオニダスは当時リオの名門フラメンゴに所属していたが、このクラブで最初のムラートの選手だった。フィーリョは、ポルトガル系の父とアフリカ系の母を持ったレオニダスをムラートとして賞賛している。ムラートといっても、彼の肌の色はフリーデンライヒよりずっと黒く、日本人の感覚からすれば「黒人」のカテゴリーに入るだろう(図3)。
1930年代になると、ブラジル人のアイデンティティについて論じた本が出版され大きな話題となった。コロンビア大学で文化人類学者フランツ・ボアズのもとで学びブラジルに戻ったジルベルト・フレイレは、1933年に出した『大邸宅と奴隷小屋』で、3つの人種(植民者の白人、先住民のインディオ、奴隷の黒人)の混血とそれらの文化の融合によってブラジルの国民が形成されていると主張した。フレイレは、混血というブラジル社会の現実を肯定し、ブラジル人が苛まれてきた西洋に対する劣等感を捨てることを促したである。
隣国のアルゼンチンやウルグアイでは、サッカーはすでにプロ化されており、労働者階級の選手がプロとなっていた。黒人のスター選手ホセ・アンドラーデが活躍したウルグアイは、24年のパリ、28年のアムステルダムの五輪で2連覇を果たす。
白人以外が有力クラブでプレーするようになるのと並行して、スタジアムも変化していった。現在国立サッカー博物館(2008年開館)を併設するパカエンブー・スタジアムがサンパウロに竣工したのは1940年である。収容人数7万人の当時南米最大かつ最新のスタジアムで、50年のワールドカップブラジル大会にも使われた。40年4月27日、オリンピックの開会式を模した開場式には5万人以上が集まった。アルゼンチン、ペルー、ウルグアイの使節団が自国の旗を持って行進し、リオやサンパウロのスポーツ団体がそれに続き、最後にブラジルの国旗と聖火が入場して聖火台に火が灯った。ヴァルガス大統領も臨席し演説を行なったこの式典は大きな反響を呼んだ。
では、リオはどうか。リオには2万人収容のフルミネンセのラランジェイラス・スタジアム(1919年竣工)、6万人収容のヴァスコ・ダ・ガマのサン・ジャヌアーリオ・スタジアム(1927年竣工)のふたつの大規模なスタジアムがあったが、1946年により大きな公営サッカースタジアムを造設することになった。FIFAが50年の第4回ワールドカップをブラジルで開催することに決めたのは、その後である。こうして50年に竣工したマラカナン・スタジアムは、最大20万人を収容することができる当時世界最大のスタジアムとなった(現在は8万人収容)。設計したのは、1960年にブラジルの新しい首都となったブラジリアの様々な独創的な建築で世界的に知られることになるオスカー・ニーマイヤーである。
フレイレのブラジルサッカー論
先に紹介したフレイレは、フィーリョの『ブラジルのサッカーにおける黒人』初版(1947年)に寄せた序文で、イングランドの秩序だったサッカーがブラジルでどう変わったかについて論じている。フレイレによれば、サルバドールのいたずら心(molecagem)、ベルナンブーコのカポエイラ(capoeira)、そしてリオのマランドラージェン(malandragem) によって、サッカーはブラジルで非合理的で意表を突いたディオニソス的なダンスへと変貌を遂げた、とされている。
この主張にはいささか説明が必要だ。いたずら心はさておき、カポエイラはブラジルの黒人奴隷たちの間で長い時間をかけて生成された格闘技とダンスが交じり合った身体技法で、音楽に合わせて行なわれる。相手の動きに呼応して臨機応変に繰り出されるアクロバティックでしなやかな体の動きが特徴で、近年世界中に広まっており、2014年にはユネスコの無形文化遺産に登録された。マランドラージェンは後にやや詳しく述べるが、ここではひとまず「憎めないずる賢さ」としておく。
ディオニソスは、ギリシア神話に登場する農耕とワインと酩酊の神だが、フレイレはニーチェが1872年に出版した『悲劇の誕生』で示したディオニソスと太陽神アポロンの対比を参照している。ニーチェは、アポロン的なるものを近代を象徴する理性、合理性、客観性、計画性、科学を志向するものとする一方、ディオニソス的なるものを非近代を象徴する陶酔、熱狂、感情、刹那、芸術を志向するものとした。つまり、フレイレはブラジルのサッカーに、臨機応変に状況に対応する柔軟さ、陶酔性、芸術性を見てとり、イングランドのアポロン的なサッカーと対比させたのだ。
このフレイレの主張は、詩人で評論家のオズワルド・ヂ・アンドラーヂが1928年に発表した「食人宣言」を想い起こさせる。ヂ・アンドラーヂは1910年代の半ばから20年代にサンパウロで知識人の間で影響力を持ったモデルニズモと呼ばれる運動の中心人物のひとりである。20年代後半、この運動の中でブラジル文化の独自性やナショナル・アイデンティティが中心的なテーマとなった。「食人宣言」でヂ・アンドラーヂは、ブラジルの先住民のインディオが行なっていたとされる食人を引き合いに出し、ヨーロッパの文化を消化・吸収することによって、ヨーロッパの模倣ではなくブラジル独自の文化や芸術を創出することを提唱したのだった。イングランドからブラジルへと持ち込まれたサッカーが、ディオニソス的なダンスへと変容してブラジル独自の「フチボウ」(Futebol)となった。フレイレはそう考えていたのだろう。
「マラカナンの悲劇」
1940年代に世界でも有数のサッカー強豪国となったブラジルは、1950年の自国開催のワールドカップで優勝候補の筆頭だった。現在では考えられないことだが、本来16チームで行なわれるはずの本大会を3チームが欠場したため、13チームが4つのグループに分かれて争った。7月16日、ブラジルは隣国のウルグアイと優勝をかけてマラカナン・スタジアムで対戦する。観客数には諸説あるが、少なくとも17万以上がマラカナンでこの試合を見たと考えられる。引き分けで優勝のブラジルは先制したものの、1対2でウルグアイに逆転負けを喫してしまう(図4)。
「国中のいたるところが、ヒロシマのように癒えることがない惨状を呈している。……私たちの惨状、わたしたちのヒロシマとは、1950年にウルグアイに1対2で負けたことだった。」「マラカナンの悲劇」と呼ばれることになったこの敗戦は、後にマリオ・フィーリョの弟で著名な劇作家ネウソン・ホドリゲスに、こう言わしめた。劇的な結末に、ふたりがスタンドから身を投げて自殺をしたともされる。真偽は定かではないが、このようなことが語られてきたことがブラジルにおけるサッカーの意味を表していると言えるだろう。工業化が軌道に乗り、独裁化した第1次ヴァルガス政権が45年にクーデターで終わり、まさにブラジルが発展しようしていたこの時、人びとはサッカーでの世界一を希求していたのである。
予想外の敗北の戦犯とされたのは、ゴールキーパーのバルボーザ、ディフェンダーのジュベニウとビゴーヂ合わせて3人の「黒人」選手である。この試合のピッチには彼らの他にも「黒人」選手が立っていたが、ウルグアイの決勝点を許した責任は彼ら3人だけに負わされたのだった。言うまでもなく、この背景には黒人に対する人種差別がある。それは、ブラジルがずっと苦しんできた、国の中に先住民の「インディオ」やアフリカから奴隷として連れてこられた「黒人」という「劣等人種」を抱え、さらに混血が進んでいるという事実にもとづいた劣等感、次節で触れる「野良犬コンプレックス」と表裏一体なものだった。
3.ペレ登場とマランドラージェン
ワールドカップ第6回大会は、1958年6月スウェーデンで開かれた。この大会が始まる直前の5月31日、先に紹介した劇作家のホドリゲスは、ブラジルの代表的なスポーツ週刊誌に「野良犬コンプレックス」という題のエッセイを寄せ、「ブラジル人は劣等感に苛まれている」と主張した。「劣等感」とは、先に紹介したブラジル人の雑種性を表わしたものであり、ホドリゲスは、「ブラジル人は、自らが野良犬ではないということを確信しなければならない」と檄をとばした。1950年の「マラカナンの悲劇」で、敗戦の責任を取らされることになる黒人3選手のうちのひとりビゴーヂが、決勝点を奪われるよりも前にウルグアイの中心選手バレラに殴られたことを引き合いに出す。この出来事はブラジルがまるで野良犬のように扱われていたことを示すものであり、ブラジル人はそれ以来コンプレックスに苛まれている、とホドリゲスは主張した。
このワールドカップで、ブラジルは初めて優勝する。大きな脚光を浴びたのが、3試合出場で6点を取った17歳のペレだった。サッカーファンでペレを知らない人はいないだろう。「サッカーの王様」とも呼ばれるペレ、本名エドソン・アランテス・ド・ナシメントは、1956年に15歳でサンパウロ州の名門サントスでプロデビューし、77年に現役を退くまでの22年間で1363試合に出場し、1281得点をあげている。ワールドカップには、58年(スウェーデン)、62年(チリ)、66年(イングランド)、70年(メキシコ)の4大会に出場し、58年、62年、70年の3度の優勝を経験している。
フィーリョが『ブラジルのサッカーにおける黒人』の第2版を、1964年に出したことは先に述べた。この版に、フィーリョは新たに「黒人の証明」「黒人の番」のふたつの章を加えている。興味深いのは、47年の初版のタイトル O Negro no Foot-Ball Brasileiro(ブラジルフットボールの黒人) が、64年の第2版では Negro no Futebol Brasileiro (ブラジルフチボウの黒人)に変えられていることである。フィーリョは、ブラジル独自の「フチボウ」が出来あがったと主張しているのだ(図5)。
「マラカナンの悲劇」の責任が3人の黒人選手に押しつけられた現実を鑑み、フィーリョは第2版で、ブラジルのサッカーにおいて白人、黒人、ムラートが調和するという47年の初版での主張は表面的で楽観的なものだったと自己批判してみせる。そのうえで、フィーリョは、ペレはヨーロッパのサッカーとブラジルのサッカーを融合したと評価した。少なからぬブラジルのサッカー選手がピッチ外では放縦に振舞っていたのに対して、ペレはサッカーだけでなく人生にも真摯に取り組んだ。フィーリョはその点を評価し、ペレはブラジル人も学ぶことができることを示し、ブラジルらしさを失うことなく天性の才能を結果に結びつけた、と賞賛したのである。
フィーリョがペレを絶賛した点はもうひとつある。ペレは、黒人であることを隠そうとしなかった。フリーデンライヒやレオニダスはストレートパーマをかけて、少しでも白人の外見に近づこうとしたが、ペレはそんなことはしなかった。フィーリョは、ペレが人種の垣根を取り払うことに貢献したとして、「ペレはひとりの黒人ではなく、黒人の代表なのだ」とまで言っている。
ブラジルサッカーの美学
年を追うごとに、ブラジル代表に白人以外の選手が増えていった。2018年のワールドカップのブラジル代表の写真を見ると、もはや白人や黒人やムラートといった区切り方は意味をなさず、「ブラジル人」としか呼びようのない選手たちが並んでいる。ブラジルではポルトガルの植民地時代から混血が進んできたが、長い時間をかけて白人以外のブラジル人がブラジル代表に定着したのだ。そしてブラジル人たちは「美しい」サッカーを目指す。
「美しいゲーム」、誰が初めてサッカーをこう呼んだかははっきりしていないが、ペレが77年刊の自伝のタイトルを『My Life and the Beautiful Game』 (邦題は『ペレ自伝』)として以来、「美しいゲーム」はサッカーの同義語として広く用いられるようになった。
ブラジルでサッカーが「美しいゲーム」であるために最も重要な要素は、フレイレが47年にすでに指摘していたマランドラージェン(malandragem)だろう。先に「憎めない狡猾さ」としたが、何を意味するかをやや詳しく見ていこう。
この言葉は、マランドロ(malandro)に由来している。マランドロは、mal 悪い+ andro男というふたつの要素からできた単語で、字義的には「悪漢」や「悪党」といったところだ。しかし、ブラジルでマランドロにはふたつの意味があることに注意しないといけない。それは、①まったくの悪党、②ずる賢いが憎めない奴、というふたつである。
この第2の意味のマランドロのステレオタイプは、白のスーツの上下に帽子を被り革靴を履き洒落のめした伊達男である。ブラジルではさまざまな場面―たとえばカーニバル―で見受けられる。インターネットで検索すれば、そうした姿の男たちの画像をすぐに見つけることができる。マランドラージェンは、第2の意味のマランドロ―つまり、ずる賢いが憎めない伊達男―の行動の仕方を意味する。
「ずる賢さ」には、もっとポジティヴな意味もある。ブラジルの社会学者フーベン・オリーヴェンは、マランドラージェンを「生き残るための戦略と先を読む能力」と捉えているが、ブラジルではある出来事に対してマニュアルによる硬直した対応をするのではなく、臨機応変に―時には小賢しかったり、人をくっていたり―対応することに価値が置かれる。サッカーでも同様で、ブラジル人たちは意表を突くパスやトリッキーなドリブルに美しさを見出す。ブラジルのサッカーは、マランドラージェンというブラジルの価値観を反映しているのである。
ブラジルを代表する文化人類学者のひとりホベルト・ダマッタは、マランドラージェンとサッカーについて示唆に富む解釈をしている。ブラジルでは、うまく生きていくためには資質としてマランドラージェンの技 (arte de malandragem) が必要だとダマッタは述べる。「尻が軽い」といった身体の部位を使った比喩的な言い回しは世界の言語に多々あるが、ブラジルのポルトガル語も例外でない。「腰技がある」(ter jogo de cintura )もそのひとつだ。「腰技がある」人とは、「不利な状況を有利なものに変化させることができる人」を意味する。サッカーを「腰のゲーム」として捉えるダマッタは、柔軟性と感受性が重要だと主張する。
2006年のドイツ大会、10年の南アフリカ大会でブラジルの監督を務めたカルロス・パレイラは、2016年のあるインタヴューで、「ヨーロッパのサッカーはテクニックはあっても華がない」と批判し、ブラジルの美しいサッカーを称賛した。かつて、そして今もブラジルには人種差別があることを押さえたうえで、柔軟性と感受性を兼ね備えたセレソン・イレブンの華のあるプレーを見ていただきたい。
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