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はじめに
本章では、イスラームの影響が強い地域の歴史を、スポーツという視点から紹介する。特に焦点を当てるのは、中東地域と北アフリカであり、競技としては、馬術やレスリング、サッカーなどを取り上げる。各地域の政治や社会に加えて、ジェンダーにも注目して日常の暮らしにも目を向けたい。そうは言っても、イスラームとスポーツがどのように繋がるのか、そもそもイスラームが何なのか、今ひとつイメージがわかないという読者も多いことだろう。そこで、まずはイスラームについての基礎的な事項をおさえよう。
はじめに確認しておきたいのは、イスラームは特定の地域を指す言葉ではないということだ。イスラームは宗教であり、しかも世界各地に信徒を抱える世界宗教だ。この点は、例えばキリスト教と並べるとわかりやすい。キリスト教が欧米のみならずアジアやアフリカ、もちろん日本にも広まっているように、イスラームの信者は世界中にいる。今からおよそ1400年前、7世紀のアラビア半島で興ったイスラームは、その後世界各地で信者を増やし、シリア、イラク、イランを含む中東地域、エジプトやモロッコなどの北アフリカはもちろんのこと、さらにサハラ砂漠以南のアフリカ大陸や中央アジア、東南アジア、中国にも広まった。中東にいくつかの聖地があるのは事実だが、イスラームの影響はそのはるか外側に広がる。イスラームを信仰する人のことを、ムスリム(女性の場合はムスリマ)と呼ぶ。今日では、ヨーロッパや北アメリカ、さらには日本にも多くのムスリムが暮らしている。東京の代々木には綺麗な礼拝堂があるし、素朴な礼拝施設は日本各地に数え切れないくらいたくさんある。現在日本で生活しているムスリムの人口は約11万人に及ぶという推計もある。イスラームというと中東地域を思い浮かべる読者が多いかもしれないが、ムスリムは中東地域以外にも多く暮らしているのだ(図1)。
そしてこのことを端的に感じさせてくれるのが、実はスポーツだ。例えば、20世紀の代表的なボクサー、モハメド・アリ(図2)。1942年にアメリカ合衆国で生まれたこのヘビー級ボクサーは、元々カシアス・クレイという名前だった。圧倒的な試合運びや、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」というセリフで有名だが、1964年に名前まで改めたように、イスラームに改宗したこともよく知られている。例えば、アリはアラビア半島のカタールを訪れたことがあり、その時の様子を紹介した特別展示が、2016年にアリが亡くなった後、カタールの首都ドーハにあるイスラーム美術博物館で開催された。他にも、日本の大相撲では、エジプト出身でムスリムとしても知られる大砂嵐関が最近まで活躍していた。
図2.モハメド・アリ
Dana R. Barnes, Notable Sports Figures, vol. 1, Detroit, MI: Gale, 2004, p.35
またその一方で、中東地域ではユダヤ教、キリスト教、ゾロアスター教など他の宗教の影響も強い。つまり、イスラームは中東地域に固有のものでもなければ、中東地域にはムスリムしかいないというわけでもないのだ。「イスラーム=中東」ではないという点を、ここで改めて強調したい。その上で、本章では、特にイスラームの影響がわかりやすい地域として、アラビア半島やイランを含む中東地域、エジプトなどの北アフリカに焦点を当てよう。スポーツとしては、前近代から続く伝統競技と近代スポーツに区分した上で、まずは前者から見ていこう。
1.ムスリムの伝統競技
今からおよそ1400年前、7世紀前半のアラビア半島で、アラブの預言者ムハンマドがイスラームを創唱した。イスラームの影響が強い社会、つまりムスリムの社会において、ムハンマドの時代から、今日私たちが「スポーツ」と呼ぶものに通じる伝統競技がいくつか伝えられている。ここでは、その代表的な競技を紹介しよう。
まず面白いのは、預言者ムハンマド自身が妻と競ったと言われる徒競走である。ムハンマドは10人を超える妻をめとったが、その中でも晩年特に愛したのがアーイシャであった。アーイシャは、幼くしてムハンマドの妻となり、ムハンマドに連れ添い、ムハンマドの最期を看取った。なお、アーイシャの父は、ムハンマドの死後に信徒の指導者(初代正統カリフ)となったことで知られている。さてアーイシャだが、生前のムハンマドと、2回、徒競走をしたと言い伝えられている。何でも、1度目はアーイシャが勝ち、2度目の対戦ではふくよかになったアーイシャにムハンマドが勝ったのだという。ムハンマドとアーイシャの人柄やふたりの仲むつまじい関係が垣間見えるようではないか。この言い伝えは、女性のスポーツ参加に関連して、今日でも言及されることがある。
また、預言者ムハンマドが関わった競技としてもうひとつ挙げられるのは、競馬である。ある言い伝えによると、ムハンマドは競馬を開催したことがあり、勝った騎手には順位に応じて布や現金、ムチなどを賞として与えたという。今日のアラビア半島でも、競馬や馬術は愛されている。例えば、ドバイの首長家であるマクトゥーム家は、多くの競走馬を所有していることでも知られている。
他にも、弓術、ポロ、水泳、ボートレースなど、前近代からムスリムは多くの競技に親しんできた。こうして並べてみて気づくのは、ムスリムも体を使って遊び、張り合いながらそれぞれの社会の中で生きてきたということである。ごく当たり前の事実だが、一般にイスラームというと難解で神秘的なイメージがあるので、ムスリムの社会の身体的な側面に光を当てることには意味があるだろう。
そして、こうした中でも忘れてはならないのがレスリングである。特にイランではレスリングが盛んで、「ズールハーネ」と呼ばれるジムで競技されてきた。ズールハーネとは、ペルシア語で「力の家」を意味するドーム型の施設である。建物の内部に入ると、半地下に八角形の床があり、この上で、トレーニングと競技が行なわれる(図3)。ムスリムでない者、女性、思春期前の男子は、伝統的に入場が禁じられていた。トレーニングの際には、軽快な太鼓に合わせて、腕立て伏せを行なったり、棍棒のように巨大な木製のアレイを持ち上げてぐるぐると廻したりして鍛錬をする。こうしたトレーニングに加えて、組み合ってレスリングのように格闘することも盛んだった。近年の研究によると、競技者の職業は様々で、例えば19世紀のズールハーネを調査したところ、館長やプロの競技者の他に、職人、商人、軍人、農民、貴族、教師、さらには詩人などもいたという。職業や社会的な立場を超えて格闘技に汗を流す男たちの姿を想像すると、ある種の清々しさを感じずにはいられない。そしてズールハーネでは侠気が重んじられ、その絆は強く、20世紀にはズールハーネが関わって成功したクーデターもあった。
ここで、モサッデク(モサッデグ、モサデグ)という名前を思い出して欲しい。20世紀に活躍したイランの政治家と言えば、ピンとくる読者もいるだろう。1951年、モサッデクはイランの首相に就任し、イギリス資本の石油会社が持っていたイラン国内の資産を国有化した。冷戦下、モサッデクによる石油国有化は、それまで西側列強と国際石油資本がタッグを組んで産油国に押し付けていた国際秩序に対する挑戦とみなされ、大きな波乱を呼んだ。そして遂に1953年、英米の諜報機関の支援を受けたイラン国王はクーデターを決行し、モサッデクを失脚させるにいたる。このクーデターに際して、国王側についてモサッデクを失脚に追い込んだのが、ズールハーネに拠点を置いた任侠集団だった。レスリングと国際政治、そしてナショナリズムが意外な形で交錯した出来事である。愛国心が強いことで知られるズールハーネの任侠集団が、資源ナショナリズムの先鋒たるモサッデクと真っ向から対立したというのだから、歴史は一筋縄ではいかない。このようにズールハーネの歴史はイランのナショナリズムとも複雑に絡み合っており、現在ではズールハーネに関わる慣習はユネスコの無形文化遺産に登録されている。
また、格闘技が盛んなのはイランに限ったことではない。ムスリムが多いトルコや中央アジアも、同じようにレスリングが歴史的に盛んな地域である。近年でもこうした地域はレスリングや重量挙げで世界的な選手を輩出している。中東、北アフリカ、中央アジアにおける格闘技の伝統が今日までどのように引き継がれているか、まだまだ研究する余地がある興味深いテーマである。
2.社会に根づく近代スポーツ︱サッカー
さて、前近代からムスリムの社会で続く伝統競技の例が馬術やレスリングだとすると、近代スポーツの代表格は何といってもサッカーだ。他にも各地で様々なスポーツが親しまれているし、日本で想像しやすいもので言えば空手も人気だ。ドーハやアブダビの海沿いの道を歩けば、ランニングを楽しむ市民の姿を見かけることも珍しくない。ペルシア湾岸地域にはインドやパキスタンからの出稼ぎ労働者も多く、草クリケットをしている若い男性たちの姿を見かけることもある。しかし、中東や北アフリカの街を歩いていて一番よく目にするのは、ボールを蹴っている子どもたちだ。カフェに入れば、衛星放送のサッカーを観ながらお茶や水タバコに興じるおじさんたちがいる。サッカーの人気は圧倒的だ。そしてサッカーの歩みは、この地域の近代の歴史とも密接に関わっている。
ここで、中東と北アフリカが体験した近代がどのような時代だったのかを見ておこう。18世紀末から20世紀にかけてムスリムの社会が抱えた大きな課題は、欧米の優位性にどのように対抗するかという問題だった。圧倒的な軍事力を背景にした欧米の植民地主義が、ムスリムの社会の政治、経済、社会、さらには文化にまで侵食してくる。このことに対して、どのように立ち向かうか? これは、似たような時期に日本を含む世界の多くの地域が抱えた悩みでもあり、今日に続く問題でもある。そしてこの難題に直面したムスリムの社会は、大きく分けてふたつの方向から解決策を模索してきた。ひとつは、イスラームの古典的な思想に立ち返って、自分たちの世界を本来あるべき姿に立て直そうという方向性である。もうひとつは、欧米の強さの秘訣、すなわち近代の科学技術、社会システム、文化、思想を学び、取り入れることで、欧米と肩を並べようという方向性である。もちろん個々の思想をたどるとこれほど単純ではないが、あえて模式的に表せば、このふたつの極の間でムスリムの社会は葛藤を続けてきたと言えるだろう。そして、近代スポーツの普及は、後者、すなわち欧米の近代から学べるものは学びながら欧米に対抗しようという姿勢のひとつのあらわれとして理解することができる。本節では、近代スポーツ、とりわけサッカーの普及と発展に注目しながら、ムスリムの社会が葛藤してきた姿を見ていこう。例に挙げるのは、エジプトである。
18世紀末、エジプトは、ナポレオンによる軍事遠征にみまわれる。ナポレオン率いるフランス軍がエジプトを占領したのは一時のことではあったものの、ヨーロッパの衝撃は強烈なものとしてエジプトの社会に記憶された。その後、紆余曲折を経てヨーロッパの影響力は高まり、19世紀末からはエジプトはイギリスの事実上の支配下に置かれる。サッカーは、こうして侵出してきたイギリスによってエジプトに伝えられた。
サッカーがエジプトに持ち込まれた経路の詳細についてはいくつか説があるが、まとめると、エジプトに滞在していたイギリス人がサッカーをしていて、それが何らかの機会にエジプト人に伝わったようである。20世紀初頭には、現在まで続く名門チームも創設された。1907年に、カイロでアハリーというチームが結成されたのを皮切りに、1911年には、後にザマーレクと改称されることになる有名チームが作られた。アハリーとザマーレクは、ともに熱狂的なファンで知られ、日本のプロ野球でいう巨人と阪神のように今日まで続くライバルチームである。さらに、1920年には、スエズ運河で有名なポートサイードで、マスリーが創設された。マスリーのチーム名は「エジプト」に由来し、その名の通りエジプト人選手だけでチームが構成された。
ここで重要なのは、イギリス人とエジプト人、それぞれの立場によってサッカーの持つ意味合いが異なっていたということである。エジプトサッカー史に関する最近の研究は、身体運動たるサッカーが持った社会的な意味を次のように分析している。すなわち、一方のイギリス人にとってサッカーとは、自分たちの優れた文明をエジプトに浸透させるために好都合な道具であった。他方、エジプト人は、こうしたイギリス人のやり方を逆手にとり、植民地主義者に対抗する手段としてサッカーを競技し、観戦し、楽しんだ。以下、最近の研究に依拠しながら、エジプトのサッカーの発展を見ていこう。
第1次世界大戦の戦火の中、中東に横たわる巨大なオスマン帝国をイギリス、フランスなどが密かに切り分けようと画策していた頃、エジプトのサッカー界は新たな局面に入る。1916年、イギリス人主体のサッカーチームとエジプト人主体のチームが参加する優勝杯争奪戦が開催されたのだ。ちなみにこの時に参加したアハリーのチーム名は、アラビア語で「国民」に由来する。こうしてサッカーでイギリスへの対抗心が醸成される中、ピッチの外ではイギリスの支配をはね返そうとする動きがさらに加速する。1919年、イギリスに対して激しい独立要求が出されるのだ。その後エジプトは形式的に独立するが、これでは十分でないとする勢力はイギリスに対して圧力をかけ続けた。こうした反英運動の機運は、サッカー界にさらなる情熱をもたらす。
とくに画期となったのは、1924年のパリ五輪と1928年のアムステルダム五輪である。ふたつのオリンピックにエジプトはサッカーの代表チームを送った。特にエジプト人を勇気付けたのは、パリ五輪でフランスとハンガリーからエジプトが金星を奪ったことである。エジプトの新聞は、異例の扱いで紙面を大きく割いて、ヨーロッパを打倒したサッカーの代表チームの活躍を報じている。当時、こうした新聞を直接読める層は知識人などに限定されていたが、報道の内容は、街の至る所に見られる井戸端会議を通じて他の人たちにも拡散されていった。カフェや公衆浴場でエジプト代表チームの勝利を聞いた人びとの興奮は、どれほどのものだっただろうか。植民地主義に蹂躙され続けてきたエジプトの市民が、代表チームの国際的な活躍を聞いて溜飲を下げる様子が想像できる。
今日にいたっても、エジプトのサッカー熱は衰えるところを知らない。20世紀初頭に創設されたアハリー、ザマーレク、マスリーといった古豪の人気は相変わらずだ。2012年、「アラブの春」の政治変動にエジプト社会が揺れていた頃、アハリー対マスリーの試合では過熱したファンが乱闘になり、多数の死者を出すという不幸な事件もあった。
アルジェリア、トルコ、イランなどでも、サッカーは社会にとって重要な意味を持つものとして歴史を刻んできた。サッカーの発展をそれぞれの地域や国家の近代史の中に位置付けようとする研究が近年あらわれているのも、そのためだろう。中東と北アフリカのほぼ全域でサッカーは確固たる地位を占めているのだ。しかも、ヨーロッパなど他地域で競技されているサッカーに対する関心も高い。石油や天然ガスに恵まれて経済的に発展しているペルシア湾岸諸国の中には、豊富な資金を活かしてヨーロッパのトップリーグのスポンサーとなっている企業もある。例えば、アラブ首長国連邦のエミレーツ航空は、イギリスの名門チーム、アーセナルのスポンサーだ。スペインのバルセローナのユニフォームにカタール航空と大きく書かれていたことがあるのを見た読者も多いだろう。また、中東や北アフリカとヨーロッパのサッカーは、人の移動の歴史という意味でも深くつながっている。フランスの伝説的なサッカー選手ジネディーヌ・ジダンは、アルジェリアからの移民の家系の出身として知られている。このように、ムスリムの社会におけるサッカーは、地域社会に根付いて熱い支持を得ているだけでなく、常にヨーロッパなど他の社会との重要な接点であり続けてきた。
3.スポーツをする女性たち
ここまで、預言者ムハンマドの時代から近現代までの伝統競技や近代スポーツの発展を概観してきた。ムスリムもスポーツを楽しんできただけでなく、スポーツの持つ意味もそれぞれの時代や社会状況によって変わってきたということがわかった。では、スポーツをめぐる最近の状況はどのようになっているのだろうか? 本節では、各地域や人物の個別性に光を当てながら見ていくことにしよう。イスラームで信奉する神はただひとつだが、その信仰を生活でどのように実践するかは様々であり、ムスリムの社会は実に多様で、とても十把一絡げにはできないからだ。こうしたムスリムの多様性を感じ取るのにうってつけの視角として、ジェンダーに注目しよう。ジェンダーは、社会全体に関わる問題でありながら、同時に、その捉え方、実践の仕方が人によって大きく異なるからだ。
イスラームとジェンダーと言うと、イスラームは女性を抑圧する宗教だという印象を持っている読者もいるかもしれない。実際、そのような立場からの発言を耳にすることもある。しかし、事はそう単純ではない。イスラームの聖典クルアーン(コーラン)は男女を明確に区別しているが、男女を区別して教えを説くということ自体は他の宗教にもみられる。また、クルアーンはたしかに女性にある種のつつましさを求めているが、その教義を日々の暮らしの中でどのように実践するかについては様々な解釈がある。まして近代スポーツとの関係は、イスラームの長い歴史からすればごく最近のものだ。ムスリマ(イスラームを信仰する女性)が近代スポーツを競技して良いか、競技して良いとすればどのように参加するのが望ましいのかといった問題は、当然、クルアーンには直接的に書かれてはいない。聖典や言い伝え、色々な慣行を総合的に勘案してどのように解釈すべきか、社会や個人によって考え方に大きな幅があるのだ。以下では、この幅、ムスリムの社会の多様性を感じさせてくれる対照的な例を見ていこう。
まずは、北アフリカの女性陸上選手、ハシーバ・ブルメルカ(ハシバ・ブールメルカ)である(図4)。ブルメルカは、アルジェリア出身で、1990年代に活躍した。専門は中距離走。1991年に東京で開催された世界選手権において、1500メートル走で優勝し、一躍世界の表舞台に躍り出た。この競技の世界選手権での金メダルは、アルジェリア人女性としても、アフリカ人女性としても、史上初の快挙であると報じられた。そして何より圧巻だったのは、1992年の夏のオリンピック。祖国アルジェリアが政治不安から内戦へと突入する中、地中海を挟んだ対岸、バルセローナで開催されたオリンピックの決勝で、ブルメルカは優勝した。しかも、2位以下を大きく引き離しての圧勝(図4)。鍛え抜かれた肉体でトラックを精悍に駆け抜けて、勝利の雄叫びをあげ、アルジェリア国旗を胸に抱きしめて喜びに浸るその姿は、世界中に放映された。そしてこの決勝のレースは、その間彼女に寄せられていた批判を退けようとする強い意志を感じさせるものでもあった。というのも、ブルメルカは他の国の女性ランナーと同じようにランニングに半ズボンという姿でそれまで競技をしており、肌の露出の多い格好はつつしむべきだと考える一部のムスリムの反発を買っていたのである。こうした批判はあまりに強く、ブルメルカはオリンピックの前のトレーニングをアルジェリアで行なうことを断念し、ヨーロッパに行かざるを得なかったほどである。バルセローナ五輪での彼女の勇姿は、アルジェリアに史上初の金メダルをもたらしただけでなく、ムスリマとしてのひとつの生き方を訴えるものでもあったのだ。
このようにブルメルカが追求した女性らしさ、つまり世界の他の女性アスリートと同じ格好で競技をしようという姿勢は、比較的理解しやすいと感じる読者が多いのではないかと思う。これに対して、別のやり方でイスラームへの信仰と近代スポーツとの調和を追求したのが、ルケイヤ・ガスラだ(図5)。ガスラは、ペルシア湾に浮かぶ島国、バーレーン出身の女性で、2000年代に陸上選手として活躍した。専門は短距離走。2004年のアテネ五輪に出場し、2006年にはアジア大会の200メートル走で優勝している。ブルメルカが他の選手と同じ格好で走ったのに対し、ガスラはイスラームとの調和を重視しているのが一目でわかる姿で競技をした。頭から足まで、顔と手以外はスポーツウエアで覆っていたのである。
ここで、女性の解放か抑圧かという単純な構図の中にふたりを対置すると、重要な点を見過ごすことになる。ブルメルカもガスラも、それぞれの規範、理想、信仰心に従って、陸上競技を追求したという点では同じだからだ。また、こうした個人間の違いに加えて、国家や地域、社会によっても女性のスポーツ参加のあり方は異なる。ブルメルカやガスラのように世界の表舞台でスポーツに汗を流す女性がいる一方で、スポーツをする機会を全く与えられないムスリマもいる。例えばサウジアラビアでは、体育が女子教育に含まれていない。近年では女子学生にも体育を教えようという動きもあるが、今後の展開はまだ不透明である。
イスラームを信仰する者も、他の人びとと同様、からだを動かすことに喜びを感じ、競技に打ち込んできた。19世紀に近代スポーツが成立してからもそれは変わらず、サッカーに代表されるような近代スポーツはムスリムの社会に受け入れられている。他方で、イスラームの長い歴史からすると近代スポーツはごく最近になって登場したものであり、しかも元々はヨーロッパの社会的な文脈の中で発祥したものだということも事実だ。イスラームの世界観の中で近代スポーツがどのように消化されるべきかについては、それぞれの社会や個々のムスリムの間でも様々な考え方がある。この点を理解するためにあえて日本社会の例を挙げると、例えば柔道が「道」として成立しつつも近代スポーツの規範との調和を図るべく葛藤してきたように、ムスリムの社会も近代スポーツとの付き合い方を現在進行形で模索しているのだ。
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