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はじめに
インドという国の名を聞いて、どんなスポーツが思い浮かぶだろうか。スポーツに詳しい人なら、カバディがインドの伝統競技であることを知っているかもしれないし、身体文化一般まで含めれば、なんと言ってもインドはヨーガ発祥の地である。少し年配の方なら、かつてホッケーの強豪であったことを知る人も多いであろう。しかし、長くイギリスの植民地時代を経験したこの国には、じつは世界で最も早い時期にイギリスから直接近代スポーツがもたらされた歴史がある。
本章では、その中でも特にクリケットとサッカーにしぼり、オリンピックについてもわずかに言及することで、インド近代スポーツ史の一端を垣間見ることにしたい。クリケットというイギリス生まれの野球に似た打球技は、日本ではあまり馴染みがないが、インドでは「たまたま外国で生まれたインドのスポーツ」と呼ばれるほどに高い人気を誇ってきた。またクリケットほど、インドの植民地経験と直接的に結びついてきたスポーツはない。サッカーも人気である。現在、アジア・サッカー連盟のランキングで14位(2018年1月18日現在)のインドであるが、1960年代半ばまではアジアの3強に数えられる強豪であった。オリンピックでは目立った活躍はないものの、ホッケーは1928年から56年まで、6大会連続優勝しており、64年と80年にも金メダルを獲得している。
ムガール帝国時代(1526〜1858年)には、地域ごとに様々な形のレスリングが盛んであり、ギリ・ダンダと呼ばれる打球戯やカバディの原型が行なわれていたところもあった。王侯貴族は狩猟やポロの一種を行ない、宮廷では舞踊や芝居はもちろん、動物同士の戦いも娯楽として楽しまれていた。その後、東インド会社(1857年までの、インドの事実上の植民地統治機関)の支配下においても、諸侯の中にはイギリス人と交流する中でポロやゴルフやクリケットにも参加する者が現れ(図1)、鹿や虎、鳥などを撃つ銃猟は、伝統的な狩猟文化とイギリス伝来の狩猟スポーツが融合する形で盛んに行なわれるようになる。そうした様々なインドの身体文化は、特に19世紀以降、イギリス支配下で再編され、近代スポーツが導入されていく。逆に、現在世界中で人気のあるヨーガも、19世紀末にヨーロッパの体操の影響を受けながら大きく再編されたものである。
1.クリケット
オリエンタル・ジェントルマン
東インド会社支配下の18世紀から、イギリス人たちはインドにクラブをつくり、本国から持ち込んだ独特の球技を楽しんでいた(図2)。すでに1721年には、イギリス人がインドでクリケットを行なっていたという記録があるし、1792年に設立されたカルカッタ・クリケット・クラブは、イングランドのメリルボーン・クリケット・クラブ(1787年設立)についで世界で2番目に古い。インドに居住したイギリス人の行政官、貿易商人、軍人たちは、植民地でも会員制の閉鎖的な「クラブ」を作って、イギリス流のライフスタイルを踏襲しようとした。中でもクリケットは、世界各地で暮らすイギリス人が母国との「文化の絆」を確認するための最良の手段であると考えられた。彼らは、クリケットはイギリス人にしか理解できないと考えたから、これをインド人にも広めようという発想はなかった。一方、インド人も、クリケットに関心を示すことはあまりなかった。
ところが、1857年のインド大反乱(いわゆるセポイの乱)を契機として、インドにとってのスポーツの意味は、大きく変わっていくことになる。大反乱以後、イギリスは東インド会社を解散し、本国政府による直接統治に乗り出すのだが、その際の重要な政策が、将来現地の支配層となる人びとをイギリス流に教育することであった。すでに1835年には、「我々イギリス人と、我々が統治する数百万のインド人との間にあって、血と皮膚の色はインド人だが、趣味と意見と道徳、その知においてはイギリス人であるような通訳的な階層が作られなければならない」として、英学教育によってインド人の下級官吏を育成し、イギリス支配の「協力者[コラボレーター]」とする方針が示されていた。
大反乱において民衆が土着の支配者に付き従ったという苦い経験から、イギリスはインド全域を直接の統治下におくのではなく、その中に旧来の支配者(藩王[マハラジャ])が名目上統治する「藩王国」をモザイク状に配置することにした。そして、将来の支配者を忠実な協力者に育成するために、藩王の子弟教育機関として設立されたのが、チーフス・コレッジと呼ばれる数校のインド版パブリックスクールであった。
ラージコートに作られたラージクマール・コレッジ(1870年)を嚆矢として各地に建設されたチーフス・コレッジの教育は、イギリスのパブリックスクールと同じく英語の他、ギリシア語・ラテン語などの古典人文主義[リベラル・アーツ]教育が中心であったが、これもイギリスと同様に、クリケットをはじめとするスポーツが人格教育の手段として取り入れられた。イギリスの植民地行政官たちは、スポーツを通じてインドの土着の支配者の子弟に「スポーツの倫理」を教え、イギリスの権益を守ってくれる現地人支配層を生み出そうとしたのである(図3)。一方でそれは、イギリス人の「文明化の使命」の一部であり、「白人の責務」であるとも考えられていた。
このような教育の成果を皮肉な形で体現した人物に、クマール・シュリ・ランジットシンジ(1872〜1933年)がいる(図4)。彼は、ラージクマール・コレッジで教育を受けたあと渡英し、ケンブリッジ大学に進み、クリケットのイングランド代表として活躍、後年インドに戻りナワーナガルという小藩王国の王となった(図5)。イギリス在住時代、インドのプリンスとしてランジの愛称で親しまれた彼は、実際には藩王の嫡子ではなかった。しかし、クリケットでイングランド代表選手となり、その活躍によって当時おそらくイギリスで最も有名なインド人となったことにより、イギリスの後押しで藩王の座に就き、さらに国際連盟のインド代表団のひとりにまで昇りつめた。第1次大戦中には募兵キャンペーンのために尽力し、インドとイングランドの双方で愛国募金を呼びかけた彼は、まさしく大反乱後のイギリス政府が望んだ協力者[コラボレーター]であった。ランジットシンジは、クリケットが「英国人がヒューマニティの大義のために生み出した最も偉大な貢献のひとつ」であり、「我々の帝国をひとつに保つための最強の絆」であると語っている。そして彼自身も、当時の様々なメディアにおいて、帝国統合のシンボルとして扱われた。
しかし、彼は生涯孤独な存在でもあった。イギリスのメディアがランジについて語る時、彼は「イギリスとインドの友情のシンボル」であり、「我々」の一員として表象されたが、同時に彼にはオリエンタルなイメージが強くまとわりついていた。ランジのプレーは即興性にあふれる「東洋の魔術」であり、「キリスト教徒的合理性」の対極にあるものとされた。当時を代表するクリケット・ライターは、次のように書いている。「彼が打席に立つと、イングランドのフィールドで初めて目にする不思議な光が見られた。それは、東洋からの光だった。」「ランジが我々の前に現れる以前には見たことのない、魅惑的な魔術であった。」しなやかな手首をしていて、器用で、鋭い眼力を持つアジア人が生み出す「東洋的魔術」は、不可解さ、狡猾さ、トリック、ペテン、策略へと容易に転換し得るものであった。ランジは、クリケットに熟達することで「我々(イギリス人)」の一員に包摂されながらも、同時にそのプレーをめぐる語りによって「彼ら(インド人)」を代表/表象する存在として排除され続けたのである。
パールシー
インドへのクリケットの移入には、もうひとつ重要なルートがあった。ボンベイのパールシーである。パールシーは「ペルシア」の転訛で、イランから移民したゾロアスター(拝火)教徒を指す。ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が2大勢力であったこの大都市において、パールシー教徒は、貿易や商業に携わる「買弁」で、イギリス支配に積極的に加担することによって後ろ盾を得ようとした。アジア人初の英国国会議員となったダーダーバーイー・ナオロージーや、インド資本主義の幕開けを告げた近代的紡績工場の創始者ジャムセトジー・N・ターターもパールシー教徒である。彼らにとって西洋文化の受容は社会的上昇のための格好の手段であり、言語、服装、家具、文学、音楽など様々なイギリス文化を熱心に取り入れたが、そのひとつがクリケットであった。
パールシー教徒は、すでに1848年にインド人による最初のクリケット・クラブ、オリエントを創設後、数々のクラブをつくり、1877年にはイギリス人チームと対戦し、1886年と88年にはイングランド遠征も行なっている。1892年には、パールシー教徒対「ヨーロッパ人」の年一度の定期戦が始まった。1907年には、これにヒンドゥー教徒チームが参加して三つ巴[トライアングラー]の大会となり、1911年にはイスラーム教徒が、1937年にはその他[ザ・レスト](インド人キリスト教徒と在印イギリス人)が加わって、5チームによるトーナメント大会となった。これが、コミュナル・クリケットと呼ばれる大会である。ボンベイで生まれたこの対抗戦は、インドのクリケットが宗教コミュニティーを基盤にして発展していく基礎となった。やがてそれは、ボンベイ以外の都市にも波及し、マドラス(現チェンナイ)、カラチ、シンド、ラホールなど各地で同様の対抗戦が始まった。
カルカッタを中心とするベンガル地方では、1880年代中ごろから中高等教育機関を拠点としてクリケットが広まった。1887年には、インドで最初の学校対抗クリケット・トーナメントであるハリソン・シールドが始まり(ボンベイでも学校対抗大会が93年に創設される)、1890年になると、プレジデンシー・コレッジ(カルカッタ)対ダッカ・コレッジ(現バングラデシュ)のように、地域を越えた対抗戦も行なわれるようになった。また、1880年頃からは、大人のクラブ組織もインド各地に創設されはじめる。
すでに1911年には、インド人による代表チームがつくられ、イングランド遠征を行なっている。しかし、クリケットでは代表チームでも、宗教による分断が常に影を落とした。このとき選考会を通じて選ばれた代表選手は、パールシー教徒6人、ヒンドゥー教徒5人、イスラーム教徒3人。キャプテンだけがシク教徒で、24歳のパティアーラ藩王ブピンダ・シンであった(図6)。渡英したインド・チームは、いきなり困難に直面した。キャプテンのブピンダが、ほとんど試合に出なかったのである。14試合中、彼が出場したのは1、2試合であった。藩王は滞在中の大半を、新王ジョージ5世の即位で沸き立つロンドンの社交界への出入りに費やした。強打者で鳴らした藩王の欠場は、戦力的にも痛手であったが、彼という重石がなくなったことで、ヒンドゥー教徒対パールシー教徒というチーム内での対立が顕在化したのである。結局、イングランド代表ならびに州の強豪クラブと対戦したインド代表チームは、2勝10敗2分けという成績で遠征を終えた。
ところで、1911年のイギリス遠征時の5人のヒンドゥー教徒メンバーには、3人の不可触民[チャマール](カースト制度の外に置かれた最下層民)も含まれていた。パルワンカール・バルーと、彼の弟たちである(図7)。1875年に生まれた長兄のバルーは、前述のランジットシンジと同世代である。ふたりは身分的には真逆であったが、クリケットによって大きく人生が変わったという点では共通していた。家計を助けるためにパールシー教徒のクリケット・クラブで使用人として働きだしたバルーは、やがて打撃練習のための投手を命じられるようになり、イギリス人クラブに移ったあとも、そこで名だたる強打者たちの練習相手を務める中で、投手としての才能を開花させていった。
バルーは、あるヒンドゥー教徒のクラブがイギリス人クラブに挑戦しようとした際に補強選手として抜擢された。不可触民をクラブに入れることにはクラブ内で反対が多く、加入が認められてからも、彼は常にあからさまな差別に耐えなければならなかった。メンバーは、彼が触れたボールに直接触ることを嫌い、休憩時間に紅茶が振舞われる際には、パビリオン(クラブ・メンバー専用の客席)の外で素焼きの使い捨てカップを与えられた。昼食も別なテーブルで、顔や手を洗う時にはグラウンドのすみに行って、同じ不可触民の召使いがヤカンからたらす水を使うという有様であった。
1896年、バルーはプーナからボンベイに移り住む。内外から多数の移民を抱える活気に満ちた大都市には、宗教やカーストなど、様々な社会集団を母体としたクリケット・チームがすでに数多く生まれていた。銀行、鉄道会社、ガス会社や、トマス・クック、フォーブスなどの企業クラブもあった。宗教やカースト集団を母体とするクラブと違い、企業クラブの多くはイギリス人が運営しており、社会的出自についても比較的寛容であった。バルーは、投手としての能力を買われてボンベイの鉄道会社に入社する。
その後も、バルーは投手として目覚しい活躍を見せ、鉄道会社で得た収入によって弟たちを学校に入れた。彼らもまたクリケットで活躍し、パルワンカール兄弟(最終的に4人)は、ボンベイ・クリケット界のスターとなり、代表選手ともなったのであった。
前述のイギリス遠征からの帰国時には、ボンベイの不可触民支援団体が歓迎会を催したのだが、このとき熱烈にパルワンカール兄弟を迎えた人びとの中には、独立後インドの法相となり、憲法起草委員のひとりとしてインド憲法の制定に関わることになるビームラーオ・ラームジー・アンベードカルもいた。自身もまた不可触民出身であるアンベードカルにとって、藩王とともに遠征に加わったバルーは、本物の英雄であった。皮肉なことに、のちにふたりは、ある自治体の首長の座をめぐって選挙戦を争い、バルーはアンベードカルに敗れることになる。
ボンベイ・クリケット・カーニバル
ボンベイの宗教コミュニティー対抗戦は、別名ボンベイ・クリケット・カーニバルとも呼ばれ、1930年代頃までには、インド独特の祝祭的なクリケット文化を作り出していた。人びとは家族や友人と観戦にでかけ、歓声をあげ、歌を唄い、信仰を同じくする集団のプライドを賭けた対戦に熱狂した。あちこちで凧があげられ、花火や爆竹、ラッパの音が鳴り響く中で試合が行なわれ、鏡に光を反射させて打者を妨害するといった行為も、センチュリー(ひとり100打点)を成し遂げた選手を祝福しに観客がグラウンドに入ってきて、選手の首に花綱をかけたり、お菓子や現金を渡すことも、ありふれた風景だった。
1937年には、ボンベイにインド初の常設スポーツ・スタジアムであるブラボーン・スタジアムがオープンした。インド・クリケット・クラブ(ICC)の本拠地として藩王の後援によって建設されたこのスタジアムの一角には、豪華なホテルとクラブメンバー専用室とパビリオンが設置された。客席が社会集団ごとに細分化されていた点も、インド・クリケットの特徴のひとつであった。インド人とヨーロッパ人、宗教、入場料、男女などによる区別はもちろん、学生用、会社用、その他一般席など、客席は様々な単位で分割された。
スポーツの発展にメディアの存在が欠かせないのはインドも同様であった。すでに20世紀の初頭には、英語だけでなく現地語の新聞もスポーツを取り上げるようになっており、活字でスポーツを読むという習慣が形成されていた。1930年代以降はこれにラジオが加わり、ボンベイのクリケットは聴くスポーツとしてインド中に伝えられるようになった。1960年代には、メジャーなクリケット試合は英語だけでなく、ヒンディー語と、その他主要な地方言語によっても放送されるようになり、ヒンディー語のアナウンサーや解説者たちは、英語のクリケット用語をヒンディー語の文脈に接合した独特な混合語をつくり出し、試合中継を行なっていた。こうしてクリケットは、より広範な支持層を獲得していく。
インド対イングランドの試合がテスト・マッチ(テストマッチと言っても「練習試合」ではなく、国の威信を賭けた代表チームの対抗戦のこと。イングランドとオーストラリアのクリケット試合を嚆矢とする)として認められるのは、1932年のことである(図8)。以後、独立までにインドは32年、36年と46年にもイングランド遠征を行なっているが、いずれもイングランドはベストチームで対戦している。オーストラリアと同様、クリケットにおいては独立以前から、イングランドとインドが対等な代表チーム同士として戦っていたことは興味深い。
独立後になると、藩王が次第にクリケットのパトロンから撤退し、有力企業がそれにとって代わった。ターター、ニアロン、マファトラールなどの大企業が、クリケット選手を高額な給与で雇用するようになった。とりわけ、西洋文化の受容と大衆文化の発信の中心地であるボンベイでは、クリケットは映画と並ぶ娯楽産業として発展し、クリケット選手は映画俳優に匹敵するスターとなった。
1960年代までには、代表選手をはじめとする有力なプレーヤーの出身地域が全国に広がっていたが、その大多数は富裕な中流階級出身者であった。しかし、60年代頃からその社会的出自も次第に拡大し、1980年代には、クリケットはインドの紛れもない国民的スポーツとなった。2008年にはクリケットのプロ・リーグとしては世界最大規模のインディアン・プレミアリーグが発足する。同リーグの2015年シーズンの観客動員数は約171万人。1試合当たりの平均観客動員数は約2万8500人である。いまやインドは、イギリス以上に「クリケットの国」なのであり、世界のクリケット界はインドを抜きに語ることはできない。
2.サッカー
1870〜1910年代
現代のサッカーボールはほとんどが合成樹脂でつくられているが、しばらく前までは牛皮製が主流だった。サッカーシューズもそうだ。ヒンドゥー教徒にとって神聖な生き物である牛の革をもちいるサッカーという競技は、宗教上のタブーに触れなかったのだろうか。
1891年、イギリス人宣教師セシル・E・ティンダル・ビスコー(「第14章アフリカ大陸」に登場するティンダル=ビスコーの父)がカシミール地方スリナガール(現パキスタン)の伝道学校に赴任したとき、たしかにそれは大きな問題を引き起こした。「文明化の使命」の観念をいだいていたこの宣教師は、様々なスポーツを通じて、地元のバラモンの子弟にイギリス流の人格教育を施そうと試みた。ビスコーは、ある日生徒たちにサッカーを教えようとしたのだが、ヒンドゥー教徒にとって革のボールを蹴ることは、まさしくタブーを犯すことであったため、彼らは激しく抵抗した。ビスコーに強制されてしかたなくボールを蹴ったものの、今度は家族から家に入ることを拒否された(図9)。
しかし、大都市カルカッタでは、その頃にはすでにインド人によるサッカー・クラブが作られていた。1877年、イギリス人クラブ、カルカッタFCのメンバーがサッカーをしているところに、ひとりの少年が通りかかった。少年の名はナジェンドラプラサード・サルバードヒカリー(以下ナジェンドラ)。当時10歳だったこの少年が、のちに「インド・サッカーの父」と呼ばれることになる人物である。不浄なボールを拒否するどころか、彼は自分でそれをイギリス人の店から購入し、学校の仲間を誘い、さっき見たゲームを真似てみた。じつは、彼が買い込んだのはラグビー・ボールだったのだが、そんなことはおかまいなしにゲームをする少年たち。それを、隣接するプレジデンシー・コレッジ(カルカッタのエリート教育校)のバルコニーから、イギリス人教授G・A・スタックがたまたま眺めていた。熱心に挑戦する少年たちに心を動かされた彼は、少年たちにサッカーを教えることになる。
10年後、ナジェンドラはプレジデンシー・コレッジを卒業し、ソヴァバザールという名のサッカー・クラブを立ち上げた。1889年にカルカッタで在印イギリス人によるトレード・カップというトーナメント大会が始まった時、ソヴァバザールは唯一のインド人チームとして出場し、92年の同大会ではイギリス人の東サリー連隊チームを2対1で破った。当時イギリスの新聞にも大きく取り上げられたこの一戦こそが、サッカーでインド人がイギリス人を倒した最初の試合であるとされている。同じ年、カルカッタではインド・サッカー協会(IFA)が、イギリス人によって設立された。ナジェンドラは、このシーズンの終わりにカルカッタFCとダルハウジー・クラブという2大イギリス人クラブの幹部をソヴァバザールの本部に招いて話し合い、翌1892年にIFAシールドという大会を創設した。すでにシムラではデュランド・カップ(1888年創設、イングランドとスコットランドのFAカップに次いで世界で3番目に古いトーナメント大会)が、1891年にはボンベイでローヴァーズ・カップが始まっており、IFAシールドは、これらと並んでインド3大カップ(トーナメント)と呼ばれることになる。
1911年、そのIFAシールドでインド・スポーツ史に残る大事件が起こった。カルカッタのインド人チーム、モフン・バガンが、イギリス人チームを次々と破り、当時在印イギリス人チーム最強と言われた東ヨークシャ連隊を決勝戦で倒して優勝したのである(図10)。決勝には6万人を超える観衆が集まり、試合後、人びとはカーストや宗教を超えて熱狂した。この勝利が、「インド人のイギリス人に対する勝利」としてとらえられたからである。
モフン・バガンはベンガル人エリート中流階級のクラブであったが、このことも大きな意味を持った。植民地政府の下級官吏を多く輩出していたベンガル人は、一方で「柔弱な人種」の代表であるとみなされていた。とりわけ19世紀後半以降、教育あるベンガル人中流階級(バーブーという蔑称で呼ばれた)について、次のようなステレオタイプが創られていた。あるイギリス人将校は、次のように書いている。「あなたは、ベンガル人をその脚によって知ることになろう。自由人の脚はまっすぐか、多少O脚である程度だ。だから彼はしっかりと立つことができる……ベンガル人の脚は骨と皮だ。……ベンガル人の脚は、奴隷の脚だ。」身体の中でも、体全体を支える脚は、象徴的な部位であった。当時、身体的に柔弱であることは、道徳・倫理的にも「弱い」ことを意味すると解釈された。それは、人種的欠陥であり、自らの力で自らを統治する能力の欠如であるととらえられ、だから文明化された民族が彼らを統治しなければならないという、植民地支配を正当化する論理と根底で結びついていたのである。
1911年のIFAシールドが始まる前、あるカルカッタの地元新聞は、次のように書いていた。
われわれ、英語教育を受けたバーブーは、イングランド人の手のひらで踊る人形のようなものだ。われわれをバーブーに作りあげた教育、そうしてわれわれに、公務員であれ専門職であれ、食いぶちを与えてくれる教育は、イギリス人によって作られたものだ。われわれの……政治的な努力と希望は、ありとあらゆるものがイギリス人からの贈り物だ。……英語教育とイギリスの習慣やマナーの表面的模倣は、われわれを完全に無価値な、イギリス流とインド流との惨めな混ぜ物にしてきた。(『ナーヤーク』6月14日)
ところがモフン・バガンが優勝した後、同じ新聞は次のように報じたのである。
インド人は、芸術と科学のあらゆる面で、すべての知的職業で、高級官僚職で、イングランド人に負けていない……インド人に残されていたのは、あのイングランド独特のスポーツ、サッカーにおいてイングランド人を倒すことのみだった。チャレンジ・シールドでモフン・バガンがイングランド兵たちに勝ったという知らせは、すべてのインド人を歓びで満たした。米を食べ、マラリアに苦しむ裸足のインド人が、牛肉を食べ、革のシューズを履いたヘラクレスのようなジョンブル(イングランド人)に勝ったと知って、全てのインド人が歓喜と誇りで満たされたのだ。全ての人がこんなに喜びをあらわにしたのを見たことがない。男も女も、ともに喜びを分かちあい、花吹雪を撒き、抱擁しあい、絶叫し、ダンスさえ踊ってその喜びを表現したのだった。(『ナーヤーク』7月30日)
カルカッタにおけるサッカー普及の時期は、ベンガル地方におけるナショナリズム高揚の時期と重なっている。1905年のベンガル分割令を受けたスワデーシ(ベンガル分割反対)運動の高まりの中で、モフン・バガンの勝利は、イギリス帝国主義との戦いにおける「インド人の勝利」としてとらえられ、カーストや宗教を越えてあらゆる人びとを熱狂させた。実際、当時のインドを代表するヒンドゥー教の精神的指導者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダさえ、「ギータを朗誦するよりも、フットボールをするほうが、人を神に近づけるであろう」と語ったと言われる。
1920〜40年代
裸足のモフン・バガンがイギリス人連隊を破ったことは、宗教やカーストや地域を越えた「インド人」としての意識を生み出し、反英ナショナリズムの象徴となった。しかし、20〜30年代以降のインド・サッカーは、逆に国内を分断する様々な対立を反映することになる。
1920年、カルカッタでさらにひとつのクラブが設立された。イースト・ベンガルである。選手のほとんどは、ダッカ(現バングラデシュ)出身の東ベンガル人移民であった。彼らは、特に1905年のベンガル分割令以降に移り住んできた人びとで、カルカッタで様々な差別的待遇を受けていた。イースト・ベンガルは、そんな彼らが自分たちのために作ったクラブであった。モフン・バガンの選手やサポーターは、大部分カルカッタの中流階級からなり、それゆえ定住者[ガーティ]のクラブと呼ばれたのに対して、イースト・ベンガルの選手とサポーターは東ベンガル出身者が中心で、移住者[バンガール]のクラブと呼ばれた。
イースト・ベンガル創設以前には、モフン・バガンにも東ベンガル人選手が数多くいた。例えば、前述の1911年にイギリス人連隊を破ったチームは、11人中8人が東ベンガル出身者であった。しかし、イースト・ベンガルの結成によって、「定住者」と「移住者」の対立は、モフン・バガン対イースト・ベンガルという形をとって、それぞれの政治的・文化的アイデンティティを表象するものとして加熱していく。1925年、イースト・ベンガルはモフン・バガンに続いて、カルカッタ1部リーグに昇格したふたつ目のインド人クラブとなり、以後も全国レベルの大会で次々と優勝して、モフン・バガンと並ぶ強豪となった。人びとは徹夜で列を成し、両チームの試合を観るために何万人もの観客が詰めかけた。
モフン・バガン設立よりも2年早い1887年、カルカッタにはイスラーム教徒サッカー・クラブがすでに設立されていた。ヴィクトリア女王即位50周年のこの年に、ジュビリ・クラブの名で生まれたこのクラブは、2度の改名ののち、1891年にモハメダン・スポーティング・クラブと改名した。イスラーム教徒クラブを代表するこの名門クラブの担い手も、モフン・バガンと同じく教育ある中流階級の若者たちであった。1930年代にヒンドゥーとイスラームとの政治的分裂が深刻化する中、モハメダン・スポーティングはベンガル地方の枠を越えて、インド全土のイスラーム教徒の人気を集めるようになっていった。そしてこの時期が、同クラブの全盛期とも重なる。1934年にインド人チームとして初めてカルカッタ・リーグで優勝を飾ると、38年まで5年連続優勝。1年おいて40、41年にも優勝を遂げた。また、36年にはIFAシールド、40年にはデュランド・カップとローヴァーズ・カップを制した(図11)。このときの中心選手モハメド・サリムは、その後スコットランドのグラスゴー・セルティックでプレーし、欧州でプレーした初のインド人選手となった。
地域間の覇権争いも、1930年代以降のインド・サッカー界の特徴である。カルカッタでイギリス人によって作られたインド・サッカー協会(IFA)は、本場イングランドのサッカー協会(FA)とも強い繋がりを維持しながら、同時にモフン・バガン、イースト・ベンガル、モハメダン・スポーティングという「カルカッタ・ビッグ3」を擁し、インド・サッカー全体の統括団体を自任していた。一方、クリケットが盛んだったボンベイでも、1891年にはサッカーのローヴァーズ・カップが創設され、ボンベイ・サッカー協会が設立された1902年からは、7チームによるリーグ戦が始まった。それらはいずれもイギリス人主導であったが、1925年にはインド人クラブのみの大会ナドカルニ・カップが、28年にはインド人サッカー・リーグが始まる。
このように1920年代頃より、サッカーはさらなる地域的な広がりを見せており、30年代になると、ラホール(現パキスタン)、マドラス、ラージプターナ、ハイデラバードなどで次々に地方協会が設立され、各地に新たなインド人強豪クラブが台頭した。こうした中、ボンベイを盟主とする西部・北部諸州の協会は、カルカッタのIFAから主導権を奪おうと全インド・フットボール協会(AIFA)を創設した。以後、インド・サッカーをめぐる覇権争いが約10年にわたって繰り広げられた末、1937年に妥協案として成立したのが全インド・フットボール連盟(AIFA)で、これがインド・サッカーの全国統括組織として今日まで続いている。
独立後
1947年、インドは、イスラーム国家パキスタンと分離する形でイギリスから独立した。独立後、1960年代半ばまでは、サッカーのインド代表はアジアの3強に数えられる強豪であった。1951年にデリーで開催された第1回アジア大会で優勝、56年のメルボルン五輪4位、62年ジャカルタのアジア大会で再び優勝、70年にも同大会3位となっている。1950年のW杯ブラジル大会でも出場権を獲得していたが、資金不足その他のために出場を断念した。しかし、1960年ローマ五輪以降は、ずっと予選落ちしている。
独立後のカルカッタでは、モフン・バガンとイースト・ベンガルの対立が、スポーツの枠を超えた過熱状態を生み出していた。独立以前には両クラブのサポーターの関係はそこまで深刻なものではなかったのだが、50〜60年代になると、モフン・バガンのバックグラウンドである定住者の多くが国民会議派を、イースト・ベンガルのバックグラウンドである移住者の多くが共産党を支持するようになる。こうして、サッカーのライバル関係が政治的対立と重なる形で、サッカー場でしばしば暴力事件が起こるようになった。1950年に大量の警官隊が投入されたのを境に、51年以降はサッカー場に警察官が常駐することとなった。このような状況は70年代まで続き、特に71年のバングラデシュ建国によってカルカッタに新たな移住者が大量に流入しだすと、対立はさらに激化した(図12)。
独立後のインド・サッカー界は、ますます群雄割拠の様相を呈していた。各地で強豪クラブが台頭し、州対抗全国選手権サントーシュ・トロフィーでも、マイソール、ハイデラバード、アンドラ、パンジャーブなどの諸州が上位に進出した。60年代後半には、これにケーララ、ゴアも加わり、州の対抗意識が高まった。60〜70年代になると、宗教単位のクラブに加えて、ハイデラバードやパンジャーブの警察チームをはじめとする公共セクターのクラブ、ボンベイのマファトラル・ミルズやターター・スポーティング・クラブといった企業クラブなど、様々なチームが全国上位を争うようになった。
ゴアでも、1950〜60年代に大企業や大工場をスポンサーとして次々にクラブが創設された。もともとポルトガルの植民地であったこの都市では、1883年にポルトガル人神父によってサッカーがもたらされていた。以来、ゴアでは、サッカーが熱狂的な人気を集め、またボンベイに出稼ぎに行ったゴア人のアイデンティティの拠り所となるなど、独自のサッカー文化が築かれてきたのだが、全国的な競技レベルはさほど高くはなかった。それが、1970年代以降、全国レベルで活躍しはじめ、80年代からは全国の強豪と肩を並べるようになった。
1980年代に入る頃から、インド・サッカーは新たな局面を迎える。州対抗のサントーシュ・トロフィーの人気低下はそれ以前からだが、80年代になると、ベンガル分割の記憶が次第に薄れ、東ベンガルからの移住者の同化が進む中で、モフン・バガンとイースト・ベンガルの対立も沈静化していった。1996年に両者で争われたフェデレーション・カップ準決勝に13万人以上の観客が詰めかけたとき、両チームは同じ会社をスポンサーとしていた。世代交代とともに、父親がイースト・ベンガルのサポーター、子供がモフン・バガンのサポーターといった例も出てくる。
アジア大会がデリーで開催された1982年には、インドでサッカーW杯の生中継が開始された。87年からは欧州と南米のリーグ戦やカップ戦の生中継も始まる。クリケットのインド代表が1983年にW杯で優勝したことでクリケット人気が一層高まる中で、90年代に入ると、衛星放送の普及で目が肥えたファンは、次第に国内サッカーを観なくなったと言われる。リーグのレベルを上げるために、アフリカ諸国の選手やヨーロッパの指導者を招聘するクラブも増えてきた。
ところで、ここまでに登場したインドのサッカー・クラブは、基本的にはすべてアマチュアである。もっとも、1970年代頃までにはカルカッタのビッグ3の選手は、名目上アマチュアでも実際にはかなりの報酬を得ていたし、90年代に入ると大企業がクラブや協会のスポンサーとなって資金を供給した。96年には、セミプロの全国リーグが開始される。このリーグを基礎として、2000年には主要9クラブがインド・プレミア・フットボール協会の創設を宣言。2007〜08シーズンからインド初のプロ・リーグ、Iリーグを開始した。一方、2013年には、今度はAIFAが、リライアンス・インダストリーズ社(石油やガス開発などの事業を手がける国内最大企業)、 IMG社(世界でスポーツ事業を展開するアメリカの企業)、スター・インディア社(インド最大のテレビ局)と手を組んでインディアン・スーパーリーグ(ISL)を発足させた。2017〜18年シーズン時点で、IリーグとISLは、いまだ統合にいたっていない。
3.オリンピック
初期のオリンピック参加
最後に、オリンピックについても触れておきたい。インドが本格的にオリンピックに出場するのは、1920年アントワープ大会からである。その前に1度だけ、1900年のパリ五輪に出場しているが、これは在印イギリス人ノーマン・プリチャードによる陸上競技への単独出場である。インド・オリンピック協会(IOA)の設立は1927年で、日本に次いでアジアで2番目に古い。
オリンピック参加を最初に後援し、インド人として初のIOC委員となったのは、ドラブジー・ターターであった。彼は、パールシー教徒で、インド初の大財閥創始者、J・N・ターターの息子である。ドラブジーは、父親と同じくナショナリストにして博愛主義者[フィランソロフィスト]で、また、スポーツの後援に熱心であった。すでに1880年代のボンベイで、学校対抗クリケット大会ハリス・シールドの創設や、ボンベイ高校運動競技協会の設立などに関わっている。1919年、ドラブジーはプーナで開かれていたデカン・ジムカーナーという名の競技会を、その会長として観戦した。競技会は、地元の農民の子弟を集めて、荒れた狭い空き地で行なわれていた。競技種目も正規のものではなかったのだが、短距離走や長距離走はあった。ドラブジーは、ここで見出した若者3人を連れて、オリンピックに出場することを思い立った。
ドラブジー自身が多額の費用を出資し、何人かの藩王の援助、募金などによって、事実上初の英領インド代表チーム6人(陸上競技4、レスリング2)が、1920年のアントワープ五輪に出場した。しかし、社会的インパクトはあまりなかったらしく、当時の新聞には、ほとんど取り上げられていない。1924年のパリ大会の際には、YMCAの主催で、デリーにおいて「オリンピック大会」と称する国内予選が開催され、そこで選ばれた陸上選手7人と、テニス選手7人が派遣された。
フィールドホッケー
インドのスポーツ史上、国際舞台で唯一華々しい成果を残したフィールドホッケーが登場するのは、1928年のアムステルダム大会からである。陸上選手7人とともに出場したインド・ホッケー・チームは、初出場でいきなり優勝し、以後約20年にわたって世界のホッケー界に君臨し続けることになる。1982年から56年まで、オリンピック6大会連続優勝(24連勝)を成し遂げ、64年と80年にも金メダルを獲得した(図13)。
インド初のホッケー・クラブがカルカッタで生まれたのは、1885年のことである。10年後の1895年には、ベイトン・カップ(カルカッタ)とアガ・カーン・カップ(ボンベイ)という2大トーナメントが東西の中心都市で設立された。やがて北西部のパンジャーブ地方でも、最初は軍隊で、やがて大学でホッケーが行なわれるようになった。1903年にはラホール(現パキスタン)でホット・ウェザー・トーナメントが始まる。20世紀初めの時点で、ホッケーは、クリケット、サッカーと並ぶ人気スポーツとなっていた。
ホッケーの全国組織は、2度の失敗のあと1925年にインド・ホッケー連盟(IHF)として実現した。全国組織の設立とともに代表チームが結成され、1926年に初の海外遠征がニュージーランドで行なわれた。代表は、18勝1敗2分け、192得点、24失点という圧倒的な強さでこの遠征を終えた。遠征の成功を受けて、英領インド政府の支援を受けることにも成功したIHFは、1927年に発足間もない国際ホッケー連盟(1924年設立)に加盟、オリンピック出場へと至るのである。
しかし、華やかな活躍の影で、ホッケーのインド代表チームは慢性的な資金不足に悩まされてもいた。オリンピックなどの遠征の際には、藩王や実業家などから寄付を募り、それでは足りずに多額の借金を抱えたまま出かけるのが常であった。欧米でも人気を得たインド代表チームは、旅の行き帰りにもエキシビション・マッチ(サッカーの試合をすることさえあった)を行ない、入場料を集め、それを借金返済にあてた。1932年のロサンゼルス五輪の帰路には、アメリカ各地だけでなくヨーロッパにも立ち寄って資金集めをした。ある年のヨーロッパ遠征では、朝10時半にバスでウィーンを出て、約500キロ離れたブダペストに夕方5時到着。すぐに試合をして、終了後またバスに乗り、深夜2時にウィーンに戻るという強行軍であった。それでも彼らは、このとき行なった9試合に全勝した。
このように、決して恵まれているとは言えない環境の中で、金9、銀1、銅2と、目覚しい成績を残してきたインド・ホッケーであるが、1980年のモスクワ大会での優勝を最後に、メダルから遠ざかっている(表1)。
インドとスポーツ
独立後のインドは、1948年のロンドン五輪に79名、続く52年のヘルシンキ五輪に64名の選手団を送り込んだ。2016年のリオ五輪には、史上最多の118名が出場している。しかし、1920年のアントワープ五輪以来、リオ五輪までで、インドは金メダル9、銀メダル6、銅メダル13と、合計28個のメダルしか獲得していない。サッカーの世界ランキングは99位で(2018年3月15日現在)、近年、国際舞台での活躍が突出しているのはクリケット(2011年W杯優勝)くらいである(図14)。
もっとも、全人口の44%が1日1ドル以下で生活し、人口の3分の1が路上生活者であるとも言われ、乳幼児死亡率も依然として高いこの国では、そもそもスポーツをする、観るということ自体が、いまだに一部の人びとの特権的な行為であることも事実である(図15)。女性のスポーツ参加率も非常に低い。その意味で、インドのスポーツ史というもの自体が、インド近代史の極めて限られた断片であることは免れないであろう。
しかし一方でそれは、植民地経験から様々な分断と対立を経てこんにちに至る、インドという国の歴史の、ひとつの特徴を端的に映し出してもいる。もともと広大で多様な社会集団の集合体であったインドは、スポーツによって、独立に先駆けてひとつの国民国家として想像され、表象されていったのであり、その意味でスポーツは、インドの国民意識形成に大きな役割を果たしてきたのである。
(付記)本章の執筆にあたっては、佛教大学のアイシュワリヤ・スガンディ(Aishwarya Sugandhi)さんと京都大学のバッテ・パッラヴィ(Pallavi Bhatte)さんにご助言をいただいた。記して感謝したい。
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