スピンドルトップとは?
スピンドルトップはテキサス州ボーモントの南の海岸平野に位置する小さい丘で、現地の人には「Big Hill」と呼ばれている。
この小さな丘は
・直径2キロメートル程度
・高さは4・5メートル
・硫黄臭を伴う天然ガスの漏出
という特徴を持っていた。
スピンドルトップ油井の開発①
スプンドルトップ近郊に住むパティロ・ヒギンズ(1863〜1955)という地質学者がスピンドルトップの特徴的な現象に興味を示した。
彼は、
起業家精神が旺盛な不動産業と材木販売業の経営者
常に他のビジネスチャンスを模索
背斜構造論という地質学の理論を学んだ結果、スピンドルトップで石油を獲得できるものと確信
→1893年、スピンドルトップの土地を取得し、掘削を開始
スピンドルトップ油井の開発②
スピンドルトップの特徴に合わせて、ロータリー掘削法(ドリルを回転させ井戸を掘り進める掘削方法)を採用
ただし、資金調達、掘削の技術的障害のため、計画がはかどらなかった
ある新聞記事「見込みのない石油掘削は資金の無駄使いである」と掲載
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事業者募集の公告を打ったところ、A・F・ルーカスという人物から応募
スピンドルトップ油井の開発③
アンソニー・フランシス・ルーカス
(1855〜1921年、ルイジアナ州の掘削技術者)
硫黄鉱床に経験と関心があったため、ヒギンズの広告に応じる
油井の掘削がはかどらず、ロータリー掘削業者として定評のあったハミル兄弟を招く
泥水利用の技術開発などにより、開発を進める
スピンドルトップ油井の開発④
・1901年1月10日、初めは少量のガスが噴出し、その後、原油が勢いよく噴出た。その高さは40メートル以上に達した。
・噴出は9日間にわたり、1日8万4000バレル、9日間合計で80万バレルに達した
・有名なバクー油田でも1日最大で4000バレルであり、その20倍以上の噴出量であった
一攫千金を目指して多くの人が集まり、およそ9000人であったボーモントの人口は5万人に膨れあがった
坑井の数も急増し、
1901年に266本
1903年に840本
1905年には783本
1906年には1060本
→国内でも圧倒的な生産量を誇るようになる
スピンドルトップ油井の開発によって、
以下のようなことのきっかけになった
・自動車産業を爆発的に拡大させる機会に
・原油を精製する際の副産物であるアスファルトを利用することにより道路舗装が完備
・鉄道や船舶も燃料を石炭から石油に移行
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農耕主体の社会から産業社会に移行
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人類社会のインフラやライフスタイル全般を変えるきっかけになった