1863年の元旦、ピエール・ド・クーベルタンはパリで、男爵夫妻の第4子として産声を上げた。国家間の対立・協調関係がめまぐるしく入れ替わる時代に生きることになる少年ピエールは、普仏戦争とこれに続いたパリ・コミューン下のフランス人同士の凄惨な戦いを、7歳にして目の当たりにした。 彼が生を受けた時代は、古代オリンピックが再発見された時代でもあった。1776年にイギリス人リチャード・チャンドラーがオリンピアの聖地の一部を発見して以降、フランスとドイツの発掘隊が相次いでオリンピアに乗り入れ、これらの学術的な調査成果は、1878年のパリ万国博覧会におけるオリンピア遺跡の展示に結びついた。パリのイエズス会系中等学校で、古代ギリシャ史の世界に魅了されていた15歳のクーベルタンは、この展示の前に立ち、古代オリンピックの情景を思い描いたに違いない。 中等学校を卒業後、青少年教育への思いが高まった20歳のクーベルタンは、教育制度の比較研究のためイギリスに渡り、ラグビー校などのパブリック・スクールを訪問する。そこで見たものは、『トム・ブラウンの学校生活』(1857年)を読んで期待していたとおり、パブリック・スクールがイギリスの社会の発展と安定に大きな役割を果たし、その中心に「自由とスポーツ」が根づいている姿だった。生徒を鋳型にはめ込もうとする当時のフランスの教育にはない発想だった。 近代オリンピックが目指すことになる平和への願い、そのモデルとなる古代ギリシャの知識、そしてその主要な手段となるスポーツの教育的価値への気づきが、20歳を少し過ぎた頃のクーベルタンに揃ったのだった。