ラーコシ体制がサッカーを重視したのは、国際試合での勝利によって西側に共産主義体制の優位性を誇示するだけでなく、サッカーの大衆動員力を手に入れようとしたからだった。加えて、サッカーを共産党体制下の能力による社会的上昇のショーケースとして活用したいという目論見もあった。これによって読み書きのできない最下層出身の選手であってもアスリートとして成功すれば、政治家や軍人を含む高い社会的地位を得ることができた。
これら全てが、1950年から国際試合で4年間無敗だったハンガリー代表「マジック・マジャル」を生み出したと考えられる。特にそのエースだったプシュカーシュ・フェレンツは、下層労働者層の出身で、最強の国防軍チームに所属し、その功績によって高位軍人にもなったという点で、ハンガリー共産党体制下におけるサッカーの申し子と言える。「マジック・マジャル」の活躍は大衆の支持調達のために体制に利用されたが、このことは逆向きにも作用した。1954年のワールドカップにおける対西ドイツ戦での敗北は、サッカーファンの体制への失望を誘うことになり、それまでうっ積していた共産党体制の政治に対する人々の不満が大規模な大衆蜂起となって噴出した1956年事件の遠因のひとつになったのである。