極東の陸上競技界において、フィリピンは短、中距離で圧倒的強さを誇っていた。1924年にフィリピンが初めてオリンピックに参加するにあたって、短距離選手であるフォルトゥナート・カタロンとデイヴィッド・ネポムセノが選ばれたのもそのためである(カタロンは脚気のため不出場)。ベルリン五輪ではミゲル・ホワイトが400メートルハードルで銅メダルを獲得した。
1921年にウッドがフィリピン総督になったことで、前総督の方針であったフィリピン化=脱アメリカ化は遅滞を余儀なくされたものの、それが完全にうち捨てられたわけではなかった。スポーツの世界でも徐々にフィリピン化が進行する。1922年に全国の体育・スポーツを統轄する政府官職として全国体育主事が設けられ、アメリカ人フレデリック・イングランドが初代主事に就任するが、1927年にはフィリピン人イラナンがこの職を引き継いだ。また、同年の極東大会では上院議員カミロ・オシアスがフィリピン選手団長を務めた。極東大会でフィリピン人が団長を務めるのはこの時が最初であり、これによって、極東大会の主たる役員はみなアジア人によって占められることになった